校長室より

校長室より

若い人

若い人

 南アメリカの南北に細長い国であるチリで、12月19日に新しい大統領が誕生しました。ガブリエル・ボリッチさん、なんと35歳です。得票率は56%で、対立候補であるホセ・アントニオ・カストさん、55歳は44%でした。

 ボリッチさんは学生の抗議運動の元指導者で、格差と汚職に抗議する大規模デモを支持しました。チリはかつて、南アメリカで最も安定した経済を維持していましたが、現在では貧富の差が世界最大レベルに広がっています。人口の1%が国内の富の25%を所有しています。こうした状況でボリッチさんは、格差是正のため、年金や健康保険の制度改革を進めると公約し、労働時間を週45時間から40時間に減らし、環境への投資を増やすと訴えました。

 これからの政治運営については、なかなか思い通りにはならないことも予想され、前途多難だと思いますが、ある意味羨ましい感じがします。日本ではこんなことが起こるでしょうか。学生運動上がりの35歳の政治家が、総理大臣になる。ありえない話です。日本の政治家と呼ばれる人たちは、世襲の人が多く、当選回数を積み重ねてポストを得て、総理大臣までたどり着く、という過程を通るので、男性の「年寄り」ばかりです。政治運営には、経験が必要だという意見もありますが、若い人の行動力や柔軟な発想力は絶対に大切なものだと思います。

 生徒の皆さんは、これから何をするにしても必ず「年寄り」に出会います。「年寄り」の経験や良いところがあれば、学んだり、真似をすることはかまいませんが、頭が古かったり、固かったりすることが多いものです。私のような「年寄り」の言うことには、注意が必要ですよ。未来を切り開いていくのは、若い人の力しかありません。赤い、近い、高い都会や世界を破壊せずに、理解していきましょう。

 

羊頭狗肉

羊頭狗肉

 ことわざシリーズ4回目は「羊頭狗肉(ようとうくにく)」です。羊(ひつじ)の頭をかかげて、狗肉(くにく 犬の肉のこと)を売る。ということで、看板は立派だが、中身がないという話です。「新しい資本主義」という立派な看板があるようですが、中身はどうなのでしょうか。羊頭狗肉にならないように、期待しつつ、よく見つめていきましょう。

 生徒の皆さんも、中身が伴わないのに、大きな風呂敷だけ広げて、それで満足しているような事はありませんか。誰しも、自分のことを大きく、価値ある存在であると見せかけたい、思ってもらいたい、と考えるかもしれませんが、自分の評価は自分が一番よく分かっています。毎日の積み重ね、地道な努力に勝るものはありません。自分でよく考えて、目の前のできることを、しっかりやり遂げていきましょう。

 このことわざを理解するためには「羊の肉は、上等で希少価値があり、犬の肉はたいしたことがない」という前提条件が、一般的で、常識であるということに基づいています。私も含めて、現代に生きる人々にそんな常識はないのではないか、と思います。

 このように、ことわざには現代にも通用する含蓄のある内容が多いのですが(そうでなければ、忘れられてしまうので)、羊頭狗肉のように一瞬戸惑いを覚えるようなものもあります。「海老で鯛を釣る」ということわざも「海老も鯛も貴重で値段の高い海産物であるが、鯛の方がより貴重である」という前提条件を知っていて、初めて理解できることわざです。

 現代であれば「スマホを掲げて、ガラケーを売る」と言えばわかりやすいでしょうか。もっとも、もう10年くらいたつと「ガラケーって何?」と言われそうですが。羊頭狗肉ということわざを、苦肉の策として使ってみましょう。

 

Climb Every Mountain

Climb Every Mountain

 日本の高等学校のスポーツを統括する団体としては、全国高等学校体育連盟(高体連)があります。ただし、野球だけは別組織で、日本高等学校野球連盟(高野連)になります。この度、高野連の新会長に宝馨(たから かおる)さんが選ばれました。宝さんは滋賀県の生まれで、兵庫県の西宮北高校から京都大学工学部に進学し、現在は京都大学教授で、地球上の水の循環を研究する水文学(すいもんがく)を専門とされています。高校、大学と野球部に所属し、京都大学の野球部監督や部長も務められ、現役時代も含め40年以上学生野球に携わってこられました。

 就任にあたってのインタビューで、映画「サウンド・オブ・ミュージック」の中で歌われる「Climb Every Mountain」の一節に感銘を受けたと話されました。この映画は1965年に公開されたロバート・ワイズ監督、ジュリー・アンドリュース主演のミュージカル映画で、私も映画館で見て感動した記憶があります。歌詞は「すべての山に登りなさい」という日本語になりますが、これは「あちこちにある山という山、すべて征服しろ」という意味ではありません。むしろ「夢に向かってずんずん前に進んでいく途中、山に出会ったら、その都度逃げないで、必ず登って乗り越えましょう」という意味のようです。ここでの「Every」の意味は「すべて」というよりは「その都度」ということです。

 宝さんは就任にあたり「大きな山だが、登ってみようと思った」「ずっと弱いチームにいた。だから敗者や弱者、未熟な学生の気持ちがわかる」と言われています。皆さんも困難に直面したとき、どのように対応するのがよいのか、自分でよく考え、家族や友達、先生など周りの人たちの意見をよく聞き、最後は自分で決定する、ということを心がけて下さい。

 高い山に登った方が、山頂での風景は美しいものです。養鶏の統計を取り、総計を後継に託しましょう。

 

ギリシャ文字

ギリシャ文字

 新型コロナウイルスの変異株の名前で有名になった、ギリシャ文字です。生徒の皆さんは、これまでにも主として数学や理科の勉強でギリシャ文字を使ってきたと思います。英語のアルファベットは26文字ありますが、ギリシャ文字は24文字です。ちなみに「アルファベット」という言葉はギリシャ文字の最初の2文字である、アルファとベータに由来するそうです。

 ギリシャ文字には大文字と小文字がありますが、小文字は次のように書きます。

αβγδεζηθικλμνξοπρστυφχψω

 最初の3文字はアルファ、ベータ、ガンマでなじみがあると思います。数学の二次方程式、解と係数の関係に出てきますし、放射線の三つの種類はα線、β線、γ線と呼びます。デルタには少しだけという意味があり、シータは角度として、ラムダは電磁波の波長に、パイは円周率に、シグマの大文字はΣで、数列などの総和に、オメガの大文字はΩで、電気抵抗の単位オームに使われています。

 新型コロナウイルスの変異株の名前に使われるようになったのは、約100年前の新型インフルエンザの大流行の際、スペインが発端ではなかったのに「スペイン風邪」と呼ばれ、スペインが迷惑したことの反省に立ったものです。アルファ株からスタートして、ミュー(μ)株まで使われていました。次はニュー(ν)の番でしたが、ニューはnewと間違えやすい、その次のクサイ(ξ)は英語表記だとxiとなり、人名によくある名前だということで、二つ飛ばしてオミクロン(ο)が採用されました。

 そうすると、あと残りの文字は9個しかありません。この先変異株がたくさん出てきたらどうするのでしょうか。と思っていたのですが、さすがに世界のWHO(World Health Organization 世界保健機関)はちゃんと考えているようで、ギリシャ文字を使い切ったあとは、星座の名前をつけるそうです。星占いの星座は全部で12個しかありませんが、現在認められている星座の名前は88個あるそうなので、しばらくは大丈夫のようです。

 それにしても、コロナが収まるのは、いつコロナのでしょうか。

 

好きこそものの上手なれ

好きこそものの上手なれ

 ことわざシリーズを続けます。生徒の皆さんは、何か好きなものやことはありますか。ゲームをすること、YouTubeやTicTocを見ること、野球をすること、絵を描くこと、友達とマクドに行くこと、人によってそれぞれ好きな事があると思います。嫌いなことをやらされることは苦痛に感じますが、好きなことなら頑張れると思いませんか。

    今年度のノーベル物理学賞を授与された、真鍋淑郎さんが言われた言葉です。

「好きこそものの上手なれ」

 なるほど、自分の好きなことに対しては、熱中できる、時間を忘れる、持続することができる、と思います。特に芸術の業界ではこのことがよく当てはまるのではないでしょうか。絵画を描くことが好きな人は、長時間集中して多くの絵画を制作することができます。楽器の演奏が好きな人は、何回も同じフレーズの練習を繰り返すことを苦にしません。それほど興味のない人から見ると、それは驚くべき集中力です。

 さて、私が20年程前に担任をした生徒の話です。彼は高校入学時から非常に優秀な成績で、特に苦手な教科もありませんでした。当時の私は当然のように彼に対して

「東京大学や京都大学を受験してみないか」と話しました。彼の答えは

「僕は小さい頃から虫が好きで、大学でも虫の研究をしたいと思っています。それには、○○大学の○○学部の○○教授の研究室が一番だと思っているので、そこへ進学するつもりです」私はぐうの音も出ませんでした。

「よくわかった。それがあなたにとって、最善の進路先ですね」

    その後彼は志望の大学に進学し、好きな虫の研究を続けています。研究のためという理由で、人が立ち入ってはいけないエリアで虫の採集活動もしているそうで、その話をしてくれたときの、彼のキラキラ光る目の輝きを今でもよく覚えています。

 皆さんも、好きなことにとことん熱中してみてはいかがですか。また、まだそれだけ熱中する好きなことがないという皆さんは、是非高校生活の中で、見つけていってください。農園に登園して、講演を聞きながら、応援しています。

 

 

募金活動ありがとう

募金活動ありがとう

 香寺高校は例年沖縄へ修学旅行に行ってきました。2019年に沖縄を代表する建築物である首里城が火災のために焼失しました。現在再建中と聞いています。そこで首里城の再建の役に立ちたいということで、3年前から毎年首里城火災復旧支援募金活動を行っています。今年は11月18、19日に校内で、20日には姫路駅前で街頭募金活動を実施しました。生徒たちは最初は引っ込み思案な様子でしたが、次第に呼びかけの声も大きくなり、通路の中央へ少し踏み出しながら2時間の活動を終えることができました。

 多くの市民の方々にご協力をいただき、大変ありがとうございました。その中でありがたいお言葉をちょうだいしました。

「私も香寺高校の卒業生です。高校生たちが頑張っている姿を見て、うれしいです」

「高校生たちが頑張っているので、これでもどうぞ」とお菓子の差し入れをいただきました。

 わずかな時間でしたが、生徒たちはやりきった充実感にあふれていました。高校生は日々成長していくものだなと改めて感じ取れた1日になりました。結果として昨年度を上回る140009円もの募金が集まりました。集まった募金は全額沖縄県に寄付させていただきます。

    今年の2年生の修学旅行は、コロナ渦に配慮して、USJと京都観光の一泊二日になりましたが、来年は集まった募金とともに、是非沖縄を訪れたいと思っています。

 

 

人間万事塞翁が馬

人間万事塞翁が馬

 ことわざシリーズ第2回は「人間万事塞翁が馬」です。これは有名なことわざですので、聞いたことがある人も多いと思います。中国前漢時代に書かれた「淮南子(えなんじ)」が出典で「塞翁(さいおう)」とは、北方の「砦・寨(とりで)」に住むとされた老人(翁)のことです。

 昔、塞翁が飼っていた馬がある日、逃げてしまいました。人々が慰めに行くと、塞翁は「これは幸いになるだろう」と言いました。数ヶ月後、逃げた馬は立派な駿馬(しゅんめ 足の速い優れた馬)を連れて帰ってきたので、人々がお祝いに行くと、今度は「これは災いになるだろう」と言いました。塞翁の息子が駿馬に乗っていると、落馬して足の骨を折ってしまいました。人々がお見舞いに行くと「これは幸いになるだろう」と言いました。1年後、隣国との戦乱が起こり、若者たちはほとんど戦死しましたが、塞翁の息子は足を骨折していたため、兵役を逃れることができ、無事にすみました。この故事から「幸福」と思えることが、後に「不幸」となることもあり、またその逆もあることのたとえとして「塞翁が馬」と言うようになりました。

 生徒の皆さんは「ムダなことはしたくない」と思ってはいませんか。例えば、数学の勉強が嫌いな人は「なんで数学なんか、勉強せんとあかんのか」と思ったことがあるでしょう。運動が苦手な人は体育が嫌いかもしれません。古文漢文の勉強が何の役にたつのかと思う人もいるでしょう。行きたい大学がある人は、その大学の入試科目以外の勉強はムダだと思うかもしれません。しかし私は職業柄かもしれませんが、高校で習ったことは全て私の役に立っていると感じています。若い間に思い切りムダなことをすることが、人生を豊かにすると信じています。自分の視野を広く持つことは、これからのグローバルな社会にとって本当に大切な事だと思います。人間万事塞翁が馬ですから、とりあえず目の前にあることに集中していきましょう。塞翁が馬、なすがまま、茄子がママ、キュウリがパパ、と活用は、しませんね。

 

汗牛充棟

汗牛充棟

 それでは、ことわざシリーズの始まりです。栄えある第1回は「汗牛充棟(かんぎゅうじゅうとう)」です。少し難しく、知らなければ読めない言葉だと思います。私も7年前に、当時勤務していた高校の国語(漢文の大家)の先生に教えてもらうまでは知りませんでした。

 出典は中国の唐の時代「柳宗元(りゅうそうげん)」という人の書いた「陸文通先生墓表(りくぶんつうせんせいぼひょう)」です。「所有している書物がとても多いことのたとえ」です。車に載せれば車を引く牛が汗をかくほど重く、家の中で積み上げれば天井の棟木(むなぎ)に届くほど書物が多いという意味です。「牛に汗し棟に充つ(うしにあせしむなぎにみつ)」とも訓読するようです。唐の時代にはまだ印刷の技術はありませんから、当然書物は紙に墨で手書きしたものでしょう。その貴重な書物が汗牛充棟ということは、かなりな財産ということになります。

 もちろん世の中には私より読書家の方は、星の数ほどおられると思いますが、私の住まいにも「充棟」まではいきませんが、かなりの数の本がありました。整理することと、若い高校生に読んでもらいたいということで、前任の高校の図書室に「木村文庫」を作ってもらい、ある程度の量の本を寄贈させてもらいました。現在の私は文字通り汗牛充棟である、姫路や加古川の図書館と、本屋さんを利用させてもらっている日々です。今はインターネットで何でも調べられる時代ですが、ネット情報は浮かんでは消えるものもあり、詳しく調べるためには書籍の利用は大切です。生徒の皆さんは、身近なところである香寺高校の図書室も、新刊の本もそろっており、是非利用してみてください。充棟させるためには、ある程度の本を充当させて、野球の試合では重盗はよろしいが、銃刀はいりません。

 

言語化する

言語化する

 日本の女子体操界を引っ張ってきた、村上茉愛(むらかみ まい)選手が現役引退を表明しました。村上選手は東京オリンピックの体操種目別床の演技で銅メダル、秋に行われた世界選手権でも床で金メダルを獲得しました。彼女は引退後、指導者の道を歩むそうですが、こんなことを言われていました。

「これまでは体操競技を、演技で表現してきた。これからは、体操の素晴らしさを言語化して表現しなければいけない」

    この「言語化する」ということは、大変難しいことですが、とても大切な事だと思います。例えば、絵画が美しい、音楽が魅力的だ、ご飯が美味しい、という事実があったとします。絵画を見る、音楽を聴く、ご飯を食べるという実際の体験ができるのであれば、それが一番です。しかし、みんなが体験できることばかりではありません。ですから、絵画の美しさを、音楽の魅力を、ご飯の美味しさを言葉で表現して、伝える必要があります。

    香寺高校では12月に3年次、2年次それぞれ「総合的な探究の時間」の発表会があります。また2月には「総合学科発表会」も予定されています。この会は、探究してきた内容を言語化して、皆さんに伝えるものです。大変な作業だと思いますが、自分の力を発揮する良い機会だと思います。また、3年次の皆さんは就職、進学するにあたって、しっかり練習をして、面接試験に臨んだ、またはこれから臨んでいくと思います。このときも、自分の考えや経験を言語化することが必要です。「3年間○○部で頑張りました」で終わるのではなく、どんな苦労があって、どんな経験をしたので、自分がどれくらい成長することができたのか、やはり体験を言語化することが必要です。この力は大学へ進学した後も、就職試験等で必ずまた必要になります。

    もちろん私は日頃から親父ギャグを考え、言語化することを実践していますから、言語化はめっちゃ得意です。特異な話も得意です。

 

 

こども食堂

こども食堂

 生徒の皆さんは「こども食堂」をご存じですか。子供やその親、および地域の人々に対し、無料または安価で栄養のある食事や温かな団欒を提供するための日本の社会活動で、2010年代頃よりマスコミで多く報じられたことで動きが活発化し、孤食の解決、子供と大人たちの繋がりや地域のコミュニティの連携の有効な手段として、日本各地で同様の運動が急増しています。そして現在では全国で約5000団体が活動しているようです。

 例えば姫路市のHPを見ると、14の団体が紹介されています。そのうちの一つに、的形町にある善正寺の横山正仁住職さんが、白浜町の灘市民センターを会場に運営されている「白浜こども食堂」があります。毎月第4日曜日に開かれていますが、このこども食堂に香寺高校の授業の一つである「保育技術」を選択した生徒たちが、地域のボランティアの方々と共に継続的に参加しています。その様子が写真入りで、11月3日神戸新聞の地方版、広域Bわがまち「灘新聞」で紹介されました。7月のメニューは「ガパオライスとサバ缶のコロッケ」ということで、大変美味しそうに出来上がっていました。

 様々な理由により、子供の貧困が取り上げられています。本来は国や地方自治体の福祉行政が対応すべき問題だと思いますが、現実として「こども食堂」の活動に支えられている面は多く、一層の充実が望まれています。運営の主体はNPO法人や民間団体、住民による融資、個人など、ボランティアによるものが大部分です。運営に要する費用や食材の調達、会場の問題、継続的なボランティアスタッフの確保など、課題は多いようです。どんな形であれ、協力することができれば素晴らしいなと思います。こども食堂の運営に、柔道、剣道、弓道、茶道、華道の生徒が参加したらドウでしょうか。

 

 

夢に手足を。

夢に手足を。

 生徒の皆さんには「夢」がありますか。「甲子園で野球がしたい」「次の大会で一部に上がりたい」「○○大学に進学したい」「美容師さんになりたい」「早く家を出て、一人暮らしがしたい」「○○くんと仲良しになりたい」大きな夢、些細な夢、いろいろあるかと思います。

 では皆さんはその夢の実現のために、何か工夫を凝らしているでしょうか。もちろん夢は実現させたいですが、なかなか現実にならないのが夢というものです。夢を叶えるためには、努力や工夫や情報収集や運などが必要になることが多いものです。

 コピーライターで有名な糸井重里さんが「ほぼ日刊イトイ新聞」というネット通信をやっています。ある日のコラムに「夢に手足を。」というものを書いていました。夢を夢のまま終わらせるのではなくて、夢を実現させるために、手足をつけていこうという考え方です。例えば「将来は看護師になりたい」という夢があるとします。看護師さんになるためには、

① 大学に行く  どこの大学に看護学部があるのか、通学や学費はどうか、入試科目や難易度はどうか

② 専門学校に行く  どこにどんな専門学校があるのか、通学や学費はどうか、入試科目や難易度はどうか

③ 進学のためには、どのような教科科目をどれくらい勉強しなければいけないのか

④ 香寺高校では「看護基礎」という科目があるので、これを選択すれば、高校生の間に大学の先生方から看護師へ向けての学習や実習をすることができる

 というように、具体的に「夢に手足をつけていく」ことを考えていきましょう。もちろん自分一人の力だけではなくて、親兄弟、高校の先生方、先輩や友人の力を借りることも大切です。

 えっ、木村篤志校長先生の夢ですか。「より一層、生徒の皆さんが通って楽しい、保護者の方が通わせて良かった、先生方が働きがいのある、地域にお住まいの方々にも評判が良い、という香寺高校をつくっていく」ことです。そのために、これからも「夢に手足を。」と考えています。皆さんも夢を実現して、有名になってください。

 

幸福とは

幸福とは

 旧制龍野中学校、現在の県立龍野高校の卒業生には、有名な方がたくさんおられます。今回はその中のお一人である、三木清(みき きよし)さんです。1897年に現在のたつの市に生まれ、旧制龍野中学から第一高等学校、京都帝国大学に進み、西田幾多郎に師事します。ドイツに留学し、ハイデガーにも教わりました。帰国後法政大学の哲学科の教授となり、膨大な著作を残します。戦時中に治安維持法違反ということで逮捕拘禁され、1945年に獄死してしまいました。死後刊行された「人生論ノート」は終戦直後のベストセラーでした。この「人生論ノート」は全部で23個のテーマについて、哲学的にエッセイ風に語られています。かなり難しい表現があったり、時代背景から政治批判を避けるような表現があったりします。この中から「幸福について」という章を取り上げます。

 皆さんはどのような時や場面で「幸福」を感じるでしょうか。美味しいものを食べた時、好きなゲームをクリアした時、夜眠りにつく前、愛する人と時間を過ごす時、人はそれぞれ「幸福」を感じることがあると思います。しかし、三木清はまず幸福についての問題提起をします。

「幸福を語ることがすでに何か不道徳なことであるかのように感じられるほど今の世の中は不幸に充ちているのではあるまいか」

    戦前の1938年に書かれたものですが、現在にも通じるのではないでしょうか。

「幸福は人格である。ひとが外套(がいとう オーバーコートのこと)を脱ぎすてるようにいつでも気楽にほかの幸福は脱ぎすてることのできる者が最も幸福な人である。しかし真の幸福は、彼はこれを捨て去らないし、捨て去ることもできない。彼の幸福は彼の生命と同じように彼自身と一つのものである」

「機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等々、幸福はつねに外に現れる。歌わぬ詩人というものは真の詩人でないが如く、単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないであろう。幸福は表現的なものである。鳥の歌うが如くおのずから外に現れて他の人を幸福にするものが真の幸福である」

    合服を着て、往復しながら回復を待つことで、幸福に近づけるかもしれません。

 

アンガーマネジメント

アンガーマネジメント 

 「アンガーマネジメント」最近流行っている言葉のようです。日本語では「怒りの管理方法」ということです。これは「怒らないようにする」のではなくて、「適切に怒りの感情と上手に付き合う」ことを目標にします。

 なぜ人は怒るのでしょうか。「○○すべき」という強いこだわりと、マイナスの感情、状態の二つがそろうことで怒りが発生します。逆に言うと、どちらかを減らすだけでも、怒りを小さくすることができます。

 例えば「時間を守る」ということを考えてみます。時間を守ることに価値観を置かない人はいないと思いますが、その程度は人によってまちまちです。「5分遅れる」ということを、「絶対許せない」と思う人もいれば、「5分くらい、どうってことない」と思う人もいます。また、普段は5分遅刻することを許せる人が、その時の精神状態や、疲労度によっては、怒ってしまうということもあります。また「怒り=よくない感情」ということばかりでもありません。例えば、スポーツの試合で負けた時に悔しさや自分に対する怒りをバネにして練習に励むように、怒りは人を動かすモチベーションとしても有効活用できます。

 さあそれでは、実際に日常生活で怒りを感じた時、どのように対処したらいいのかを紹介します。

1 怒りを静める「6秒ルール」

 怒りの対処術に共通するのは「怒りに反応しないこと」です。怒りを感じたら、まず6秒待って怒りを静めましょう。

2 怒りを点数化する

 平穏な状態を0、人生最大の怒りを10として、怒りに点数をつけます。過去の怒りと比較して、現在の怒りを相対評価すると、今怒るべきか怒らないべきか、感情を選択できるようになります。

3 「○○すべき」という価値観を捨てる

 人によって価値観は異なるものです。「○○すべき」はあくまで個人の理想やこだわりであって、すべての人に通用するものではありません。

 皆さんの周りに、あるいはあなた自身も含めて「切れやすい人」がいませんか。学校や、家庭や、職場等で「怒る」という感情を見つめなおしてみてはいかがでしょうか。戦場で謙譲の心をもって、根性を出して感情をコントロールすると、人情がわかる新たな自分が誕生するかな。

 

法の下の平等

法の下の平等 

 今回は法律の話です。最初から何か難しい話になりそうなので、読むのをやめてしまう人が多くなりそうですが、法律のことをほとんど知らない私でも、「それはおかしい」と思っていることを二つ取り上げます。

 一つ目は、政治家に対するお金の問題です。職務権限(いきなり難しいですが、ある出来事に対して判断を下す力をもつことです)を持つ政治家に対して、便宜を図ってもらうつもりで、ワイロを渡し、実際に便宜が図られたときに、贈収賄(ぞうしゅうわい)という罪が発生します。江戸時代の「越後屋、お前もワルよのう」から始まり、権限を持つ人にワイロを渡し、便宜を図ってもらうことは明らかに犯罪です。しかし「職務権限の有無」や「このお金はワイロではなく、政治献金である」とかいって、政治家たちは贈収賄事件から逃れてきた歴史があります。私たちから見ると、不公平感が満載です。

 もう一つは「刑法犯罪(刑法に触れる犯罪で、殺人や強盗から傷害や窃盗等を含む)」を犯したのに、逮捕されて身柄を拘束されなかったり、裁判を受けなくてすむ場合があることです。「えっ、今の日本で、そんなことがあるのか」と思う人が多いと思いますが、日本にいる外国人(もちろんほとんどがアメリカ人)で、軍隊に属している人たちがそれに当たります。日米安保条約のもとに、日米地位協定が結ばれており、アメリカ軍兵士が日本で犯罪を犯したときに、身柄を拘束して、裁判を行う権利は、基本的にはアメリカ側にあります。そしてアメリカ兵の犯罪件数が一番多いのは、日本で一番アメリカ軍の基地が集中している沖縄県です。特に1995年9月4日に起こった、アメリカ兵3人による少女暴行事件は、計画的かつ卑劣な犯行であり、さすがにこのときばかりは日本の裁判所が実刑判決を出すことで決着し、これをきっかけに地位協定の「運用の改善」は行われました。

    本来は日米地位協定を改訂して、明治時代の「治外法権」のような仕組みを正していくべきだと思われますが、これは実は大変難しい事なのです。日本とアメリカだけの問題ではないからです。アメリカは世界中に軍隊を派遣しており、その派遣国毎に地位協定を結んでいて、国によって突出した協定はありません。それはアメリカが、アメリカ兵を守ろうとしていることから出発しているからです。

 「日本は法治国家である」という言葉が、正しいとは思えない事例二つでした。法治国家を長年カウチに寝そべって放置してきたのが、アウチでした。

 

おいあくま

おいあくま 

 色々なことが、うまくいかないことがあります。いやむしろ、うまくいくことの方が珍しいのかもしれません。うまくいかないと、自分の気持ちの持ちようまで、悪くなってしまうことがあります。さて、そんなときにどうすれば良いのでしょうか。

 「おいあくま」で考えてみましょう。この言葉の出所は、旧住友銀行の元頭取であった堀田庄三さんであると言われていますが、プロ野球の元阪急ブレーブスで、世界の盗塁王と言われ、現在は野球解説者の福本豊さんが、先輩に教わったとも言われています。

お おこるな 怒るな

い いばるな 威張るな

あ あせるな 焦るな

く くさるな 腐るな

ま まような 迷うな  ま は まけるな 負けるな という説もあります。

 どうですか。確かに「おこらず、いばらず、あせらず、くさらず、まよわず」物事に対応できれば、うまくいくような気がします。しかしそういう精神状態を保ち続けることは、とても大変だと思います。逆に「おこり、いばり、あせり、くさり、まよう」ばかり行っている先生(校長、上司)がいたら、その生徒(先生、部下)は、とても大変で「こんなんで、やってられるかい」とちゃぶ台をひっくり返したい気分になると思います。

 関連があると思うので、夏目漱石の「草枕」の冒頭を書いてみます。「智(ち)に働けば角(かど)が立つ。情(じょう)に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈(きゅうくつ)だ。とかくに人の世は住みにくい」

 「よく頭を使ってうまく立ち回ろうとすると、『せこい』『ずるい』『要領が良いだけ』と言われてしまうし、感情に流されてしまうと反対にだまされたり、関わるべきでないことに関わってしまったりして損をしてしまう。じゃあ自分は自分らしく生きようと、好きなことを主張すると、人からひんしゅくを買うばかりになってしまう。私たちの住む人の世は窮屈で住みにくい」

 明治時代の文豪、夏目漱石でも悩んでいました。現代に生きる私たちが悩むのも無理はありません。悩んだときは「おいあくま」を思い出しましょう。実際には、昼間の幕間には、悪魔にもヒグマにも会いたくはありません。

 

アニマルウェルフェア

アニマルウェルフェア 

 「アニマルウェルフェア」あまり聞いたことがない言葉かもしれません。日本語では「動物福祉」や「家畜福祉」と訳されています。動物を「感受性のある存在」と捉え、家畜にとってストレスや苦痛の少ない飼育環境を目指す考え方のことです。家畜やペット、実験動物などが満たされて生きる状態を確立するために、次の「5つの自由」が定められました。1 空腹と渇きからの自由 2 不快からの自由 3 痛みや傷、病気からの自由 4 正常な行動を発現する自由 5 恐怖や苦悩からの自由

 確かに動物たちにも、人間と同じように福祉や自由の権利があるとの認識は必要なことなのかもしれません。しかし・・・

 例えば卵を産むために育てられている採卵鶏には4つの飼い方があります。アニマルウェルフェアの実現度の高い順に「放牧」「平飼い」「エンリッチドケージ」「バタリーケージ」です。日本の主流は「バタリーケージ」よく見る鶏の飼い方で、狭いケージの中に閉じ込められている感じがしますが、92%の採卵養鶏場が採用しています。先日農業科のある高等学校の先生と話をする機会がありました。その学校でも採卵鶏を飼っているのですが、普通のケージ飼いと、平飼いの両方を試されていました。

「アニマルウェルフェアのことを考えると、平飼いの方が良いのですか」

「いや実は平飼いをすると、鶏同士がくちばしで互いをつつきあい、怪我をすることが多いのです。それを避けるためには、かなり広い敷地の中で飼育することが必要で、人手がかなりかかってしまいます。一般の農家さんではなかなか難しいと思います」

    アニマルウェルフェアの考え方で、平飼いや放牧で鶏を育てたとすると、費用がかなりかかってしまうため、卵の値段がかなり上がってしまうことが予測されます。それでも消費者として、高い値段の卵を買うでしょうか。なかなか難しい問題です。

    先日名古屋入国管理局の施設で、スリランカ人の女性が亡くなるという事件がありました。日本では「アニマルウェルフェア」よりも、「人間ウェルフェア」の方が優先順位が高いのかもしれません。

 

いじめ、差別

いじめ、差別 

 今回は重たいテーマですが、いつも以上にしっかり書きますので、しっかり読んでみて下さい。

「あなたはいじめや差別を良いものだと思いますか」

こう問われて「はい」という人は、ほとんどいないと思います。では、

「いじめや差別はいけない、と思う人が大半なのに、いじめや差別がなくならないのはなぜですか」

この問いにきちんと答えられる人は、どれほどいるでしょうか。一つの回答として、

「いじめや差別はたいてい悪意のない人がする」

ということが考えられます。どういうことか、二つの例をあげてみます。

①    「もうすっかり日本人ですね」

    国外から日本に移り住んでいる移住者にたいして、日本語も上手になったので、賞賛の意味でこう言うことはないでしょうか。しかしこれは聞き手にとっては「我々(多数である日本人)は、あなた(少数である移住者)のことを、いまだに完全なる日本人とは見ていない」という前提での発言だと捉え、侮辱的に感じられることがあるようです。

②    「希望をもってください」

    障がいがある人に対して、励ましの言葉としてこう言うことはないでしょうか。しかしこれも聞き手にとっては「健常者から見ると、障がいがありながらの生活には、希望がないという前提での発言である」と聞こえることがあります。

 これらは「意図的に差別をしようと思った」発言ではありませんが、実は多数派の価値観に根ざした言葉と捉えられ、結果として聞き手には不快な思いをさせてしまうものです。こう考えると、私も知らないうちに、人を傷つけるような発言や態度をしたことがあったのではないか、とても不安に思います。性別、障がい者、セクシャル・マイノリティ、移住者等に対して、自分が立つ位置によっては、ある意味「特権」を持っていることが見えにくくなってしまいます。

「差別は私たちが思うよりも平凡で日常的なものである。固定観念を持つことも、他の集団に敵愾心を持つことも、極めて容易なことだ。誰かを差別しない可能性なんて、実はほとんど存在しない」ので、「私たちが生涯にわたって努力し磨かなければならない内容を『差別されないための努力』から『差別しないための努力』に変える」必要があります。登別で判別できるようにキャベツを食べながら、差別を考えましょう。

 

猫の話

猫の話

 「我が輩は猫である。名前はまだない。」これは夏目漱石のデビュー作「我が輩は猫である」の書き出しです。今回は猫の話です。ちなみに我が家の飼い猫は「みーちゃん」と言います。

 大変忙しくて、人手不足のときには「猫の手も借りたい」と言います。「猫の手」では役に立たないと言うことが前提にあることを踏まえたことわざです。「猫に小判」は猫には小判の値打ちは分からない、と言うことを前提に「価値の分からない人に貴重なものを与えても、何の役にも立たないことのたとえです。他にも「猫をかぶる」「ネコババ」等、あまり良くないたとえに使われている例が多いような気がします。また、12の動物が出てくる干支には、戌年はありますが、猫年はありません。

 では外国を見てみましょう。フィンランドのことわざに

「『やり方はいくらでもある』と、おばあちゃんは猫でテーブルを拭きながら言った」

というものがあります。これは「意外なところに道がある、解決策は一つではない」という意味だそうです。実際に猫でテーブルを拭くことはないでしょうが、背景にはフィンランドに息づく「sisu(シス)」の精神があるようです。sisuは「勇敢で、粘り強く、忍耐強く、諦めない姿勢と態度」のことで、「フィンランド魂」と訳されることもあるようです。フィンランドは極寒の国ですから、このような言葉が生まれてきたのかもしれません。コロナ渦の今、見習いたい姿勢と態度でしょうか。

 「我が輩は猫である。名前はみーちゃんという。」という書き出しで、木村漱石も小説を書いてみましょうか。

 

悩み、不安、心配事

悩み、不安、心配事

 生徒の皆さんは、悩みや不安、心配事がありますか。全くないという人はいないかもしれません。高校生の年代だと、勉強の事、進路についての事、友人関係や、自分の容姿についての悩みもあるかもしれません。最近だと「新型コロナに感染したらどうしよう」という不安もあります。年齢を重ねるにつれて、心配事は変化していく場合が多いです。私のような年齢になると、自分や親の健康問題等が気になってきます。

 さて、悩みや不安を感じたときはどうしたら良いのでしょうか。解消方法は人によって様々だと思いますが、やはり自分以外の人に相談してみることが一番ではないでしょうか。自分が信用できる相談相手がいるとすれば、それは大変ありがたいことです。自分の親や、友人はもちろん、高校の先生やキャンパスカウンセラーの先生等も相談に乗ってくれると思います。最近だとSNSを使って聞いてみるという方法もあるようです。

 しかし、誰に相談したところで、自分の気持ちが変わらなければ、悩みは解消されません。他人には「何だ、それくらいのことでクヨクヨするな」と思われることでも、自分としては「夜も眠れないくらい悩んでいる」ことはよくあることです。ではどうすれば良いのか。まず一つ目は

「心配事の9割は、実際には起こらない」

    こういうタイトルの本も出版されていますし、アメリカの科学者による研究結果もあるようです。二つ目は

「なんくるないさ」「ケ・セラ・セラ」

    沖縄の方言である「なんくるないさ」と、スペイン語の「ケ・セラ・セラ」は同じような意味で「大丈夫、たいしたことはないよ、きっとうまくいく」という意味です。三つ目は

「先のことではなく、今できることに集中せよ」

    禅宗に「喫茶喫飯(きっさきっぱん)」という言葉があります。「余計なことは考えず、お茶をいただくときには、お茶を飲むことだけに集中して、ご飯をいただくときにはご飯を食べることだけに集中しなさい」という意味です。

 皆さんも悩み、不安、心配事があれば、人に相談して、自分の気持ちの持ちようを考えてみて下さい。相談するときは、階段を使って降壇しながら行いましょう。

 

宇宙人と出会う前に読む本

宇宙人と出会う前に読む本

 生徒の皆さんは、宇宙人は存在すると思いますか。私は小さい頃から「宇宙人はどこかにはいる」と思ってきました。「宇宙はものすごく広いから、どこかの星には地球と同じような星があるに違いない」というのが理由です。

 今回は、筑波大学研究員の高水裕一さんが書いた、講談社ブルーバックス「宇宙人と出会う前に読む本」から紹介します。この本では、「地球人」と「宇宙人」が交流するという架空の話を通して「地球での常識と宇宙での常識」を考えるという内容になっています。以下、いくつか紹介します。

①    あなたはどこから来たのですか。

 「地球という惑星から来ました」これでは全く通じません。正解は「天ノ川銀河の中心から約2.6万光年離れたG型恒星(緑色や黄色をした軽量型の恒星)である太陽を公転する惑星のうち、内側から3番目にある地球から来ました」

②    あなたは何でできていますか。

「私は原子でできています。現在の地球の素粒子物理学では、物質の究極の最小単位は電子とクォークであると考えられていますが、あなたの惑星ではどうでしょうか」現在地球で用いられている元素の周期表は、宇宙でも通用します。

③    あなたたちの太陽と月は、いくつありますか。

「地球では太陽も月も一つです」そんな惑星は、宇宙では大変珍しいものです。すべての恒星のうち半分以上は「連星」で三重やそれ以上の連星もあります。太陽が二つ、三つある場合は、日の出や日の入りを定義したり、そもそもカレンダーをどのように作るのか、とても大変です。また月のような衛星の数も、太陽系ですら水星と金星にはありませんが、火星は二つ、木星は72個、土星は53個となっています。日食や月食が頻繁に起こることになります。

    他にも、「あなたは左右対称ですか」「エネルギーは何を使っていますか」等、地球人の常識が、宇宙人の常識とは異なる事例が述べられています。自分たちの物事の見方を考え直す、とても面白い本でした。見方を考えるためには、味方を多くして、少なくとも三方から見つめ直すことが必要です。