校長室より

幸福とは

幸福とは

 旧制龍野中学校、現在の県立龍野高校の卒業生には、有名な方がたくさんおられます。今回はその中のお一人である、三木清(みき きよし)さんです。1897年に現在のたつの市に生まれ、旧制龍野中学から第一高等学校、京都帝国大学に進み、西田幾多郎に師事します。ドイツに留学し、ハイデガーにも教わりました。帰国後法政大学の哲学科の教授となり、膨大な著作を残します。戦時中に治安維持法違反ということで逮捕拘禁され、1945年に獄死してしまいました。死後刊行された「人生論ノート」は終戦直後のベストセラーでした。この「人生論ノート」は全部で23個のテーマについて、哲学的にエッセイ風に語られています。かなり難しい表現があったり、時代背景から政治批判を避けるような表現があったりします。この中から「幸福について」という章を取り上げます。

 皆さんはどのような時や場面で「幸福」を感じるでしょうか。美味しいものを食べた時、好きなゲームをクリアした時、夜眠りにつく前、愛する人と時間を過ごす時、人はそれぞれ「幸福」を感じることがあると思います。しかし、三木清はまず幸福についての問題提起をします。

「幸福を語ることがすでに何か不道徳なことであるかのように感じられるほど今の世の中は不幸に充ちているのではあるまいか」

    戦前の1938年に書かれたものですが、現在にも通じるのではないでしょうか。

「幸福は人格である。ひとが外套(がいとう オーバーコートのこと)を脱ぎすてるようにいつでも気楽にほかの幸福は脱ぎすてることのできる者が最も幸福な人である。しかし真の幸福は、彼はこれを捨て去らないし、捨て去ることもできない。彼の幸福は彼の生命と同じように彼自身と一つのものである」

「機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等々、幸福はつねに外に現れる。歌わぬ詩人というものは真の詩人でないが如く、単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないであろう。幸福は表現的なものである。鳥の歌うが如くおのずから外に現れて他の人を幸福にするものが真の幸福である」

    合服を着て、往復しながら回復を待つことで、幸福に近づけるかもしれません。