校長室より

いじめ、差別

いじめ、差別 

 今回は重たいテーマですが、いつも以上にしっかり書きますので、しっかり読んでみて下さい。

「あなたはいじめや差別を良いものだと思いますか」

こう問われて「はい」という人は、ほとんどいないと思います。では、

「いじめや差別はいけない、と思う人が大半なのに、いじめや差別がなくならないのはなぜですか」

この問いにきちんと答えられる人は、どれほどいるでしょうか。一つの回答として、

「いじめや差別はたいてい悪意のない人がする」

ということが考えられます。どういうことか、二つの例をあげてみます。

①    「もうすっかり日本人ですね」

    国外から日本に移り住んでいる移住者にたいして、日本語も上手になったので、賞賛の意味でこう言うことはないでしょうか。しかしこれは聞き手にとっては「我々(多数である日本人)は、あなた(少数である移住者)のことを、いまだに完全なる日本人とは見ていない」という前提での発言だと捉え、侮辱的に感じられることがあるようです。

②    「希望をもってください」

    障がいがある人に対して、励ましの言葉としてこう言うことはないでしょうか。しかしこれも聞き手にとっては「健常者から見ると、障がいがありながらの生活には、希望がないという前提での発言である」と聞こえることがあります。

 これらは「意図的に差別をしようと思った」発言ではありませんが、実は多数派の価値観に根ざした言葉と捉えられ、結果として聞き手には不快な思いをさせてしまうものです。こう考えると、私も知らないうちに、人を傷つけるような発言や態度をしたことがあったのではないか、とても不安に思います。性別、障がい者、セクシャル・マイノリティ、移住者等に対して、自分が立つ位置によっては、ある意味「特権」を持っていることが見えにくくなってしまいます。

「差別は私たちが思うよりも平凡で日常的なものである。固定観念を持つことも、他の集団に敵愾心を持つことも、極めて容易なことだ。誰かを差別しない可能性なんて、実はほとんど存在しない」ので、「私たちが生涯にわたって努力し磨かなければならない内容を『差別されないための努力』から『差別しないための努力』に変える」必要があります。登別で判別できるようにキャベツを食べながら、差別を考えましょう。