校長室より

2022年3月の記事一覧

文化相対主義

文化相対主義

 今回は「人類学」の世界では有名な「文化相対主義」です。これは「全ての文化は優劣で比べるものではなく対等である、という思想のこと」で、20世紀になってからアメリカの人類学者であるフランツ・ボアズが提唱し、ルース・ベネディクト(1946年に出版された、日本文化を記述した「菊と刀」の著者)によって確立されたと言われています。

 対義語は「自文化中心主義」で「自分たちの文化を基準として、他の文化を否定したり低く評価したりする考え方」のことです。産業革命以後、ヨーロッパの国々が「帝国主義」のもと、アジアやアフリカを植民地にしていきました。これは当時の西洋人たちが「正しい知識のもと、進んでいる文化」を持っており、遅れているアジアやアフリカに対して「助けてやっているんだ」という考え方をしていたということです。

 文化相対主義の具体的な例を見てみましょう。例えば「食文化」があげられます。日本には、ご飯、みそ汁、漬物といった日本食、和食の文化があります。欧米ではパンにステーキ、ワインといったメニューがあります。中華料理や、インド料理も1つの食文化です。また食べ方も、はしを使う、ナイフやフォークを使う、手づかみで食べる等の違いがあります。自国の人から見れば、他国の文化が異様に見える場合がありますが「文化相対主義」は個々の文化に対して固有の価値を認めます。そして、序列や順位をつけません。

 こうして世界には様々な文化が存在し、それぞれの文化を認めて、グローバルな社会を作っていきましょう、という風潮があったはずなのですが、コロナ渦と、戦争によって、再び「自文化中心主義」の考え方が出てきているような気がします。宇宙から見た地球は、青く美しく、国境の線は見えません。人間が勝手に国境を決めてしまいました。文化相対主義で、総体を早退してはいけません。

 

 

プーチンが目指すもの

プーチンが目指すもの

 ロシア軍がウクライナに侵攻して1ヶ月になります。世界中からの非難を受けながら、プーチンは何を、そして誰を目指しているのでしょうか。現在のロシアとその前のソ連、そのまた前の帝政ロシアを振り返ってみましょう。

 1人目はソビエト連邦を形作った「ヨシフ・スターリン」です。1917年のロシア革命でロマノフ王朝が倒され、ウラジミール・レーニン(プーチンと同じ「ウラジミール」というファーストネームです)率いるソビエト連邦が成立しました。1924年にレーニンが死去した後、ソ連共産党書記長として最高指導者となったのがスターリンです。スターリンはソ連という国家を作り、第二次世界大戦ではドイツ軍を撃退し、戦後は国連の常任理事国となり、多くの成果を上げたという一面もあります。しかし猜疑心が強く、数知れない多くの人々を粛清と称して処刑や投獄、追放処分を行った独裁者でもあります。現在でも否定的な存在だと思われるので、プーチンが目指す目標ではないと思われます。

 2人目は約300年続いたロマノフ王朝の皇帝「ピョートル1世」です。彼は1672年から、亡くなる1725年までツァーリの地位にあり、軍隊を整備し、他国との戦争の結果、ロシアの領土を増やすことに成功しました。当然、ロシア側からすれば「英雄」になるのでしょうが、侵略された側からすると憎き悪人ということになります。プーチンは大統領執務室にピョートル1世の肖像画を飾っていたと伝えられているので、彼が目標だと思われます。

 そうすると、軍隊を強化して「ロシアの安全のため」という理由をこじつけて、他国に攻め込む政治指導者、ピョートル1世とプーチンが重なる存在となります。本当にプーチンがピョートル1世を目指しているのなら、これはすぐに解決する戦争ではないような気がしてきます。ピョートルではなく、平和をトルにしたいものです。

 

 

自信と過信は紙一重

自信と過信は紙一重

 日本代表も務めた、プロサッカー選手の大久保嘉人(おおくぼ よしと)さんが現役を引退されました。彼は現役時代にフォワードとして活躍し、J1通算最多得点記録191得点をマークしましたが、J1通算最多イエローカード記録104枚をマークした、いわゆる「やんちゃ小僧、熱い男」です。

 大久保選手は長崎県国見高校の出身ですが、国見高校と言えば、小嶺忠敏(こみね ただとし)監督です。全国高校サッカー選手権で6回優勝した大監督ですが、長崎県の教員を定年退職した後も、長崎総合科学大学附属高等学校の監督として活躍されましたが、残念ながら2022年1月に亡くなられました。

 小嶺監督が大久保選手にかけた言葉で、大久保選手が今でも覚えているものが、冒頭の「自信と過信は紙一重」という言葉です。小嶺監督は、サッカー選手としての大久保さんのことを、非常に高く評価していたに違いありません。だからこそ、プロの世界へ飛び込む大久保選手にこの言葉を送ったのだと思います。

 プロの選手ですから、自信がなければやっていけません。またプロの選手で期待されながら、思うように活躍できずに姿を消してしまう選手たちも後を絶ちません。自信は必要ですが、過信になってはいけません。しかし、その境目は本当に微妙な差でしかありません。その事をよく自覚して練習に、生活に励みなさいということです。私がこの言葉を聞いたとき、これはプロの選手だけに当てはまるものではないと感じました。学生であったり、社会人全般に当てはまると思ったので、ここで紹介しています。生徒の皆さんも、自信をもって、過信せずに、都心で、ニシンでも食べて、ミシンを使って、苦心してください。

 

抵抗の新聞人 桐生悠々

抵抗の新聞人 桐生悠々

 桐生悠々(きりゅう ゆうゆう)、本名桐生政次という人がいました。1873年に石川県金沢で生まれ、第四高等学校から帝国大学法学部に進学したと言いますから、当時の超エリートです。しかし卒業後は、短期間で職業を転々とします。そんな中、栃木県の下野(しもつけ)新聞を皮切りに、大阪毎日新聞、大阪朝日新聞、東京朝日新聞で記者を勤め、1910年長野県の信濃毎日新聞の主筆(しゅひつ)に就任します。主筆という言葉は現在では馴染みがありませんが、新聞の社説を書いたり、コラムを書いたり、記事をチェックするという仕事をする人です。反権力、反軍的な言論を繰り広げ、表現の自由のためにペンの力で立ち向かいます。

 1914年に信濃毎日新聞から新愛知新聞に移りますが、1928年に再び信濃毎日新聞に戻ります。1933年、彼が書いた社説の中で最も有名になった「関東防空大演習を嗤う(わらう)」が発表されます。これは東京を中心として関東一帯で行われた防空演習を批判したもので、文章の中身は至極当然な内容で、12年後に現実となる東京大空襲を予言するものでした。しかし当時の陸軍は「嗤う(さげすみ、笑う)」という言葉に反応したようで、彼は信濃毎日新聞を追われてしまいます。

 以後は「他山の石」という個人雑誌を出版していきますが、変わらぬ政府や軍部に対する批判を書き続け、発禁処分を何回も受けることになります。1941年、太平洋戦争開戦の3ヶ月前に、喉頭ガンのため、68歳の生涯を閉じます。

 1980年、長野県出身のジャーナリストである、井出孫六(いで まごろく)による岩波新書「抵抗の新聞人 桐生悠々」が出版されました。私はこの本を読んだ覚えがあるのですが、2021年に岩波現代文庫として再版されました。井出孫六は2020年に亡くなられたのですが、今回の再版では、同じく長野県出身のフリージャーナリストである青木理(あおき おさむ)が解説を書いています。青木理は、現在も週刊誌、新聞、テレビなどで、活躍しています。桐生悠々、井出孫六、青木理と受け継がれてきた反権力のジャーナリスト魂を感じることができました。魂のこもった文章を読むことは楽しいですね。

 

文明の衝突

文明の衝突

 戦争状態になっています。21世紀になって、こんな前近代的な出来事が起こるとは、人間とはいかに愚かな生き物なのでしょうか。ロシアのプーチン大統領がいなければ、こんな事にはなっていないと思いますが、プーチンだけが悪者であるとも思えません。第2、第3のプーチンが出てこないとも限りません。一刻も早く、戦闘状態が終結することを祈るばかりです。

 さて、1996年にサミュエル・ハンチントンが書いた「文明の衝突」という書籍が出版されました。日本語訳は1998年に出され、かなりな評判になりました。これは1991年に旧ソ連が崩壊して、「冷戦」と呼ばれた資本主義対共産主義の対決が終了して、平和な世界が訪れるかもしれないという期待があった時期に書かれたものです。そこには、冷戦が終了したとしても、異なる文明の国の間では、衝突が起こりうるということが予言されていました。例えば、アメリカとイスラム勢力との対立、アメリカと中国との対立等です。まさに、冷戦後の対立関係を予言して、的中しているところがあります。またこの本の中には「ロシアがウクライナを攻撃するかもしれない」という一節があります。もちろん歴史的にはウクライナもロシアもソビエト連邦を作っていた兄弟国ですから、私は戦争になることなどは予測できないと思っていました。しかし、ウクライナはロシアやヨーロッパから侵略された歴史を持ち、どちらかと言うとヨーロッパに親近感を持つ人々が多いように思われます。ハンチントン氏は、いわゆるヨーロッパとロシアの間には「文明の衝突」があるかもしれないと、20年以上前に予測をしていました。

 戦争を始めるのも人間ですから、戦争を止めるのも人間の力だと思います。私たちの力も微力ですが、無力ではないと思っています。

 

旧暦と二十四節気

旧暦と二十四節気

 現在の日本の暦(こよみ)は、1582年ローマ教皇グレゴリウス13世が改良した太陽暦である「グレゴリオ暦」を採用していますが、この暦を採用したのは1872年、明治5年からです。それまではいわゆる「旧暦」と称する「太陰太陽暦」を用いていました。太陽暦はその名の通り、太陽の運行に着目した暦ですが、太陰暦は月の満ち欠けに着目した暦で、古代中国で成立したものを日本も長く採用してきました。古文を勉強するときに、現在の暦とずれているのはこのためです。

 太陰暦では1ヶ月という期間を、満月から満月まで、または新月から新月までとします。そうすると1ヶ月は29日または30日になり、1ヶ月という単位は考えやすいものになります。しかし、1年12ヶ月は約354日になるため、太陽暦の365日に対して約11日短くなるため、3年に1回程度、閏月(うるうづき)を入れて季節の調整をしなければなりませんでした。

    旧正月というのは、太陰暦で元日にあたる日のことですが、通常は雨水(うすい)2月19日ごろの直前の朔日(さくび)すなわち新月の日を指します。具体的には1月21日ごろから2月20日ごろまでを毎年移動します。中国等では現在でもこの旧正月を春節(しゅんせつ)と呼んで、大きなお祭りをしています。

 旧暦の考え方だけでは、正月等の日程が毎年少しずつ変わってしまいます。そこで太陽暦の考え方を導入して、二十四節気(にじゅうしせっき)を考え出しました。これは太陽の動きを基に、夏至・冬至・春分・秋分の二至二分(にしにぶん)の日を決め、立春・立夏・立秋・立冬の四立(しりゅう)、その他の季節として全部で24の名称を定めました。2月4日ごろに、よくニュースでは「今日から暦の上では春を迎えますが・・・」と言われますが、この日が立春になり、その前の日2月3日が節分になります。二十四節気は太陽暦を基にしているので、日付けが変わったとしても1日程度になっています。旧暦と二十四節気は、全く別の暦なのです。

 暦は現在でも世界中で様々なものが使用されています。暦を学習することを強みにして、たくさんの本をお読み。