校長室より

校長室より

令和6年度 「新年度のご挨拶」

 兵庫県立香寺高等のホームページにアクセスしていただき、ありがとうございます。

 令和5年4月に校長として本校に着任し、2年目を迎えます 森 美樹 と申します。どうぞよろしくお願い申し上げます。日頃より本校の教育活動に’ご理解とご協力を賜り、誠にありがとうございます。

 本校は、昭和24年に兵庫県立福崎高等学校神南分校として開校され、昭和49年に兵庫県立香寺高等学校として独立、そして平成9年に兵庫県下初めての総合学科高校に改編され、創立75年となる伝統ある学校です。

  本校では、総合学科の特性をふまえ、数多くの選択教科・科目が用意されており、将来の目標や興味関心を見据えて生徒が自分自身で学びたいものを学ぶシステムとなっています。選択するにあたっては、ミスマッチや選び損ないを防ぐため、教師の手厚いサポートが受けられます。夢、目標、志をかなえるために、長所や得意なことをさらに伸ばすことができる学校です。令和5年度の1年間、生徒の活動を見守る中で、他校にはない充実した教育環境と指導技術、また体験学習や特徴ある課外活動を通して、生徒の成長がいかに大きなものであるかに感じ入り、目を見張る思いがしました。

  香寺高校で2年目となる私にとりまして、本校の1番の自慢は生徒です。教職員に対してはもちろんのこと、校内でおみかけした初対面の方や校外で出会った地域の方々にも気持ちのよい挨拶と明るく素直な言動が相手に好感を与えるような存在です。ご家庭での養育や本校教員による指導の賜物であり、香寺高校を選んで入学してくる生徒の元々の良さが入学後大きく花を開かせているのだと確信しています。

  本校教育活動のさらなる充実と発展のため、ホームページをご覧いただいた皆様には、今後とも引き続きご支援を賜りますようお願い申し上げます。

 

                                        令和6年4月1日

                                        兵庫県立香寺高等学校

                                        校長  森  美 樹

令和5年度 「新年度のご挨拶」

 兵庫県立香寺高等のホームページにアクセスしていただき、ありがとうございます。

 令和5年4月3日に校長として本校に着任しました 森 美樹 と申します。どうぞよろしくお願い申し上げます。

  本校は、昭和24年に兵庫県立福崎高等学校神南分校として開校され、昭和49年に兵庫県立香寺高等学校として独立、そして平成9年に兵庫県下初めての総合学科高校に改編され、今年創立74年目を迎える伝統ある学校です。姫路市北部に位置し、四季折々の豊かな自然に恵まれ、非常に落ち着いた学習環境を有しています。また、総合学科ならではの多彩な選択科目の中から「なりたい自分」を実現させるのに最適な科目を選ぶことができます。3年間で徐々に力をつけ、成長していく姿を見守りながら、私たち教職員は一丸となって全力でサポートしていく所存です。

 「個性伸ばせば、夢ひろがる ~君の夢が実現します~」のスローガンのもと、 生徒も教職員も学ぶことを最優先にしている学校を目指します。「この学校で学んで良かった」「この学校に子供を通わせてよかった」「地元にこの学校があってよかった」と言っていただけるよう、全身全霊を尽くして取り組んで参ります。

 日頃より本校の教育活動に’ご理解とご協力を賜り、誠にありがとうございます。本校教育活動のさらなる充実と発展のため、ホームページをご覧いただいた皆様には、今後とも引き続きご支援を賜りますようお願い申し上げます。

 

                                        兵庫県立香寺高等学校

                                           校長 森 美樹

 

 

ありがとうございました

ありがとうございました

 年度末を迎えました。2年間、兵庫県立香寺高等学校の校長として、大変お世話になりました。定年退職後の再任用校長としての2年間を、香寺高等学校で勤務できたことを本当に嬉しく思っています。

 思えば2年前の4月1日、井上新悟教頭先生の自家用車で香寺高等学校に着任しました。先生方から温かく迎えていただいたことを、昨日のことのように覚えています。

 2年間、本当に好きなようにやらせていただきました。始業式や終業式のパワポを用いたお話、文化祭や体育大会での親父ギャグ入りの挨拶、これでもかという程の回数の「校長室より」と「理科の散歩道」。多くの先生方に支えていただきました。特に井上教頭先生は、体育大会での「1、2、3、ダーッ」発言のように、芸風が変わってしまいました。申し訳ないことです。

 また、西播磨地区校長会、総合学科校長会等の会議では、たくさんの校長先生方に助けていただきました。また県の教育委員会事務局、特に高校教育課と教職員人事課の皆様には感謝しかありません。

 私事ですが、新年度からは東加古川にある、兵庫大学教職センター、というところに勤めることになりました。今度は大学生を相手に、教員採用試験や就職試験の合格へ向けてのお手伝いをすることになります。香寺高等学校からも、毎年兵庫大学に進学する生徒がいます。大学生になった皆さんとは、教職センターでお会いできることを楽しみにしています。

 私は香寺高等学校からは離れますが、4月からは新しく森美樹校長先生が着任されます。これからも香寺高等学校の発展を応援しています。生徒の皆さん、先生方、関係の皆様方のますますのご活躍を祈念してやみません。本当にありがとうございました。 

 木村 篤志

 

大塩平八郎の乱

大塩平八郎の乱

 藪田貫(やぶた ゆたか)さんが書いた、中公新書「大塩平八郎の乱」です。藪田さんは日本近世史を専門とする歴史学者で、現在兵庫県立歴史博物館の館長をされており、第二代の大塩事件研究会会長を務めています。

 大塩平八郎の乱は、日本史の教科書には必ず登場する事件ですが、私もこの本を読むまでは詳しい内容を知りませんでした。大塩平八郎の乱の研究としてまとめられたものとしては、幸田成友(こうだ しげとも)の「大塩平八郎」(1910)が最初です。ちなみに幸田成友は、文豪幸田露伴の実弟です。続いて石崎東国(いしざき とうごく)の「大塩平八郎伝」(1920)、戦後は相蘇一弘(あいそ かずひろ)の「大塩平八郎書簡の研究」(2003)が全三巻で発行されました。しかしこれらの研究では、書簡の分析等から大塩平八郎の人となりの研究が中心で、乱自体の分析が少ないものであった、と藪田さんは書いています。

 大塩は大坂町奉行所の元与力(町奉行を補佐する中間管理職で、行政を中心に、警察官と裁判官の役割を兼ねた)でした。大塩は文としては陽明学を研究し、私塾洗心洞(せんしんどう)を立ち上げ、弟子を数多く育てました。また武としては、槍の達人で、鉄砲や大砲などの砲術にも堪能でした。まさに文武両道で、徳川幕府の実績のある役人として活躍した人物であっただけに、大塩の乱は幕府を震撼させました。

 その大塩が天保8年(1837)2月19日に反乱を起こします。天保の大飢饉があり、餓死者が続出する中、奉行所に救済を嘆願したが容れられず、私塾の門弟たちと「救民」を掲げて決起しますが、わずか1日で鎮圧されます。大塩の乱の評価は二分しています。大塩贔屓(びいき)の意見は、決起当日に撒かれた「檄文」が「飢饉のため、餓死者が出ているような社会であるのに、幕府や奉行所は庶民を救おうとしない。また豪商たちと結託して、贅沢の限りを尽くしている。このような状況を救うために、我々は決起する」という内容であり、実際に所蔵していた書籍等を売却して窮民に施しを行ったので、大塩は素晴らしいというものです。反対に大塩嫌いの意見は、飢饉の最中に市街戦を決行し、罹災者を増加させてしまったのはけしからんというものです。

 そして反乱壊滅後、大塩は約40日あまり大坂市内に潜伏していました。他の同志たちは捕まったり、自害していたのですが、なぜ大塩だけは生き延びていたのか。その理由は乱の前日に幕府、特に老中あてに「国家のことについて掛け合う」という内容の密書を送り、その返答を待っていたようなのです。ここでも文武両道の大塩像が見られるようです。ともあれ、現在でも熱狂的な大塩ファンの人々がいるのは間違いないですし、今後また新たな書簡等が発見され、研究が進む可能性もあります。大塩の研究は親潮や黒潮に乗って、満ち潮のときに進むかもしれません。

 

小津と芭蕉の共通項

小津と芭蕉の共通項

 「江東区が世界に文化的に誇れるのは、松尾芭蕉と小津安二郎だ」作家の高橋治さんが残した言葉です。

 今年で生誕120年を迎える日本映画界の巨匠、小津安二郎(1903~63)は東京都江東区深川で生まれ、小学生の頃に三重・松阪に引っ越し、約10年を過ごした後に深川に戻り、映画界に入りました。映画監督として「東京物語」「晩春」「麦秋」といった世界的にも著名な代表作の数々を、脚本家の野田高梧、俳優の原節子、笠智衆といった「小津組」と呼ばれるおなじみの顔ぶれで制作しました。

 日本を代表する江戸時代の俳人、松尾芭蕉(1644~94)は伊賀上野の出身なので、忍者かもしれないという説があります。亡くなるまでの約14年間、深川の芭蕉庵を主な拠点とし、「野ざらし紀行」や「おくのほそ道」などの旅に出ました。有名な「古池や蛙飛び込む水の音」という俳句を詠んだ場所も深川の芭蕉庵でした。芭蕉には蕉門(しょうもん)という一門があり、俳諧連歌は弟子たちと一緒に作り上げるものでした。「古池や~」の句は、芭蕉庵に集まった弟子たちと行った句会で、芭蕉が詠んだ最初の一句(発句)でした。

 俳諧と映画監督という違いはありますが、世界的にも有名なこの2人が、東京深川と三重にゆかりがある人物だということは、私も知りませんでした。また、芭蕉の俳句と小津の映画はともに集団創作であり、蕉門と小津組は似ていると言えるかもしれません。

 小津は、オズの魔法使いを、芭蕉は場所をわきまえて、作品を作り続けたのかもしれません。

 

言葉と人は、不思議に出会う

言葉と人は、不思議に出会う

 ミステリー作家の米澤穂信さんが、毎日新聞に書いていました。劇作家の寺山修司の作品に「ポケットに名言を」という角川文庫があり、その中にフランスの作家アルベール・カミュの「手帖」という作品からの言葉で、次のようなものが収められています。

「性格を持たないとき、人はたしかに方法を身につけなければならない」

「私(米澤さん)はこの言葉を、天才でないなら技を磨かねばならないと解釈した。書くべき内面がないならば、せめて上手くなれ。その技は、もしかしたら、ひょっとしたら、何かの「性格」に届くかもしれないと思った。言葉と人は、不思議に出会う」

 世の中には天才と呼ばれる人が、いるにはいるのでしょう。例えば将棋の藤井聡太さんは多分天才なのでしょう。しかし藤井聡太さんは自分を天才だとは思っていないのだと思います。そうすると世の中に存在する人は、私も含めて、ほぼ凡人だらけということになります。それならば、せめて「上手くなれ」「技を身につけよ」ということです。何かを求めて格闘していると、人は不思議と良い言葉に出会う、という訳です。

 3月、4月は、別れと出会いの時期です。「さよならは別れの言葉じゃなくて、再び会うまでの遠い約束」1995年、薬師丸ひろ子「セーラー服と機関銃」の冒頭の一節です。今回はいつものように(?)真面目に終了します。

 

赤いインク

赤いインク

 ある男が、東ドイツからシベリア送りとなりました。彼は、検閲官が自分の手紙を読むことを知っていました。だから、友人にこう言ったのです。「暗号を決めておこう。もし、俺の手紙が青いインクで書かれていたら、手紙の内容は真実だ。だが、もし赤いインクで書かれていたら、それは嘘だ」1ヶ月後、彼の友人が手紙を受け取ると、すべてが青いインクで書かれていました。そこには、こう書かれていたのです。「ここでの暮らしは大変素晴らしい。美味しい食べ物もたくさんある。映画館では西側の面白い映画をやっている。住まいは広々して豪華だ。ここで買えないものと言ったら、赤いインクだけだ」

 このジョークは、ドイツがまだ東ドイツと西ドイツに分かれていた時代に、ソ連の「社会主義」を皮肉ったものです。しかし、このジョークはひょっとしたら現在の私たち「資本主義」での暮らしにも当てはまるかもしれません。

 今私たちが享受している「自由」や「豊かさ」がこの青いインクで書かれた手紙の世界だとしたら。例えば、日本に暮らす私たちは、ウーバーイーツで美味しいものを注文したり、Netflixで好きな映画を見たり、ルンバの自動掃除機を買うこともできる。そんな世界では、私たちの望む自由がすべて実現されているように見えるかもしれません。でもそれはただ、この社会の不自由を描くための赤いインクがないからだとしたら。だって、実際には、給料は安いし、仕事もつまらない。家も車もローンを組まないと(あるいはローンを組んでも)買えない。定年まで必死に働いても年金はもらえないかもしれない。さらに、気候危機は悪化していく。そのうえ、インフレに悩まされる世界経済の先行きは不安で、日本には円安や人口減少という問題もある。ロシアとウクライナの戦争は終わる兆しがないし、台湾有事も心配だし、北朝鮮のミサイルはいつ飛んでくるか分からない。実際には、これからも資本主義が続く、と言われて未来に希望を持てる人は、どんどん減っているのではないでしょうか。これは単に、資本主義では赤いインクが手に入らなくて、世界が青いインクで塗りつぶされているだけなのかもしれません。

 ここまで長く引用した文章は、経済学者の斎藤幸平さんが書いた、NHK出版新書「ゼロからの『資本論』」の一節です。斎藤さんは現在に必要な赤いインクとして、マルクスの「資本論」を取り上げます。マルクス、資本論、社会主義などという言葉は、過去の遺物としてとらえられている気もします。斎藤さんは「資本論」とマルクスが書き残したメモ等を読み込み、これから必要とされる社会のあり方を考えていきます。もちろんそれは当時のソ連や現在の中国が行っている「社会主義」とはまったく異質な社会です。一読をお勧めします。社会を赤いインクで書くと、深い理解が得られ、愉快な機会が増えて、高い2階に登り、世界を見る視界が広がります。

 

失笑する人は笑っているか

失笑する人は笑っているか

 日本語、漢字は難しいシリーズが続きます。「失笑(しっしょう)」という言葉はどういう意味でしょうか。「失業(職業を失う)」「失念(うっかり忘れること)」「失格(資格を失う)」「失望(望みを失う)」などと同様に、「失笑」を「笑いを失う」つまり「(あきれるなどして)笑いも出ない」つまり「笑わない」と思う人が増えているそうです。

 二字熟語に「失」が含まれる場合、確かにそれを「なくす」「なくなす」「喪失する」という意味にとらえる場合が多いのは事実です。しかし「失」にはもう一つ「しそこなう」「落ち度」「誤る」という意味もあります。「失言(言葉を誤ること)」「失火(誤って火事を起こしてしまうこと)」「失禁(我慢できず大小便を漏らすこと)」「失政(政治の手法を誤ること)」などが例としてあげられます。「失笑」もこちらの意味で、「おかしさのあまり、吹き出してしまうこと。笑ってはいけない状況で、こらえきれずに笑いだしてしまうこと」という意味です。失笑する人は、当然笑ってしまった人になります。「失笑を禁じ得ない」という風に使います。

 またもう一つ、「失」には「行き過ぎ」「度を超す」という意味もあり「遅きに失する(遅すぎてタイミングをのがす。時機に遅れたため用をなさない)」という風に使います。同じ形で「長きに失する」「遠きに失する」「奇抜に失する」などが使われますが、それぞれ「長すぎる」「遠すぎる」「奇抜すぎる」という意味で、「失する」は「限度を超えている」「~であり過ぎる」という意味で使われます。

やはり日本語、漢字は難しいです。失笑すると、決勝で圧勝して、熱唱して、一生、発症や、抹消せずに、折衝ができるかもしれません。

 

音楽の構成

音楽の構成

 北海道函館市出身のロックバンド、GLAYです。1994年にメジャーデビューして、数多くのヒット曲があります。メンバーは、TERU(ボーカル)、TAKURO(ギター)、HISASHI(ギター)、JIRO(ベース)の4人で、活動の初期にはリーダーでもあるTAKUROが楽曲を作っていました。GLAYのヒット曲の中でも有名な曲は、97年8月に発表された「HOWEVER」です。この曲を作ったTAKUROが、先日こんな話をしていました。

 同じ97年2月に発表された小室哲哉さん作詞作曲で、安室奈美恵さんの「CAN YOU CELEBRATE?」を聞いたときに、これは当時のJ-POPの最高傑作だと思いました。新しい言葉づかいで歌詞の「永遠っていう」でいいんだと、その自由さが当時の安室さんの心情を出していて、あまりにも感動した僕は、一度でいいからこの曲のような「サビのような、いわゆる“つかみ”が来て、その後にちょっとしたイントロがある」という構成で書いてみたいと思って「HOWEVER」を作ったんです。

 「CAN YOU CELEBRATE?」は名曲で、現在でも結婚式ソングとして歌われています。「HOWEVER」も名曲ですが、こんな裏話があったとは知りませんでした。歌詞もメロディーも全然違う曲ですが、言われて見れば曲の「構成」はそっくりです。曲の発表当時にはこんな話はできなかったかもしれませんが、26年経ちましたから、もう時効ということでしょう。それにしても現在にも歌い継がれている名曲が、同じ年に発表され、先の曲を元ネタに使って、次の曲が誕生するというのは、面白すぎます。

 今のJ-POPは「Aメロ、Bメロ、サビ」という風に形式が決まっていたり、コンピュータミュージックのように、リズム重視の曲が多いように思いますが、97年にはこのように「音楽の構成」が模倣されていたのですね。構成を考えると、趨勢に押され、統制や養成する間もなく、優勢に創世されて、どうせいと言うのやら。

 

 

漢字の音読み

漢字の音読み

 皆さんは、漢字の読み方に音読みと訓読みがあることはご存じだと思います。このうち訓読みは、日本語において、個々の漢字をその意味に相当する和語(大和言葉、日本語の固有語)によって読む読み方が定着したもので、一般にひらがなで表記されます。そして多くの漢字の訓読みは、一種類です。

 それに対して、音読みの方は、漢字の中国語における発音に由来するものが多く、漢字によっては、複数の読み方があります。例えば「明」という漢字は訓読みだと「明るい(あかるい)」と読みますが、音読みだと「みょう」「めい」「みん」と三種類もあります。これはどういうことでしょうか。

 実は音読みには「呉音(ごおん)」「漢音(かんおん)」「唐音(とうおん)」の三種類があります。最も古い時代に伝わり、定着した音読みが呉音です。現在では仏教の用語に多く残っています。漢音は7~8世紀、奈良時代後期から平安時代初頭にかけて、遣隋使、遣唐使や留学僧などによってもたらされた読み方で、現在一番よく使われている読み方です。唐音は平安末から江戸時代の終わりまでに、禅宗の留学僧や貿易商によってもたらされました。唐音で読む語数は少なく、例えば椅子(いす)、行灯(あんどん)、提灯(ちょうちん)、蒲団(ふとん)などがそれにあたります。先ほどの「明」でいうと、呉音が「みょう」、唐音が「めい」、唐音が「みん」になります。ですから、音読みには複数の読み方が生じるのです。

 このうち、呉音で読む例としては、「眼(げん)」「行(ぎょう)」「品(ほん)」「色(しき) 般若心経に出てくる、色即是空(しきそくぜくう)」「食(じき) 断食(だんしょく ではなくて、だんじき)「発(ほつ) 発起人(はつきにん ではなくて、ほっきにん)」「変化(へんげ) 七変化(しちへんか ではなくて、しちへんげ)」「男女(なんにょ) 老若男女(ろうじゃくだんじょ ではなくて、ろうにゃくなんにょ)」「金(こん) 金堂(きんどう ではなくて、こんどう)」などがあげられます。なるほど仏教の用語がとっつきにくいとされるのは、この呉音読みにも原因の一つがありそうです。

 いやー、小学生の時には、なぜ一つの漢字の読み方がたくさんあるのかが不思議でしたが、そういうことだったのですね。呉音の読み方で、御恩返しができそうです。