校長室より

校長室より

夢に手足を。

夢に手足を。

 生徒の皆さんには「夢」がありますか。「甲子園で野球がしたい」「次の大会で一部に上がりたい」「○○大学に進学したい」「美容師さんになりたい」「早く家を出て、一人暮らしがしたい」「○○くんと仲良しになりたい」大きな夢、些細な夢、いろいろあるかと思います。

 では皆さんはその夢の実現のために、何か工夫を凝らしているでしょうか。もちろん夢は実現させたいですが、なかなか現実にならないのが夢というものです。夢を叶えるためには、努力や工夫や情報収集や運などが必要になることが多いものです。

 コピーライターで有名な糸井重里さんが「ほぼ日刊イトイ新聞」というネット通信をやっています。ある日のコラムに「夢に手足を。」というものを書いていました。夢を夢のまま終わらせるのではなくて、夢を実現させるために、手足をつけていこうという考え方です。例えば「将来は看護師になりたい」という夢があるとします。看護師さんになるためには、

① 大学に行く  どこの大学に看護学部があるのか、通学や学費はどうか、入試科目や難易度はどうか

② 専門学校に行く  どこにどんな専門学校があるのか、通学や学費はどうか、入試科目や難易度はどうか

③ 進学のためには、どのような教科科目をどれくらい勉強しなければいけないのか

④ 香寺高校では「看護基礎」という科目があるので、これを選択すれば、高校生の間に大学の先生方から看護師へ向けての学習や実習をすることができる

 というように、具体的に「夢に手足をつけていく」ことを考えていきましょう。もちろん自分一人の力だけではなくて、親兄弟、高校の先生方、先輩や友人の力を借りることも大切です。

 えっ、木村篤志校長先生の夢ですか。「より一層、生徒の皆さんが通って楽しい、保護者の方が通わせて良かった、先生方が働きがいのある、地域にお住まいの方々にも評判が良い、という香寺高校をつくっていく」ことです。そのために、これからも「夢に手足を。」と考えています。皆さんも夢を実現して、有名になってください。

 

幸福とは

幸福とは

 旧制龍野中学校、現在の県立龍野高校の卒業生には、有名な方がたくさんおられます。今回はその中のお一人である、三木清(みき きよし)さんです。1897年に現在のたつの市に生まれ、旧制龍野中学から第一高等学校、京都帝国大学に進み、西田幾多郎に師事します。ドイツに留学し、ハイデガーにも教わりました。帰国後法政大学の哲学科の教授となり、膨大な著作を残します。戦時中に治安維持法違反ということで逮捕拘禁され、1945年に獄死してしまいました。死後刊行された「人生論ノート」は終戦直後のベストセラーでした。この「人生論ノート」は全部で23個のテーマについて、哲学的にエッセイ風に語られています。かなり難しい表現があったり、時代背景から政治批判を避けるような表現があったりします。この中から「幸福について」という章を取り上げます。

 皆さんはどのような時や場面で「幸福」を感じるでしょうか。美味しいものを食べた時、好きなゲームをクリアした時、夜眠りにつく前、愛する人と時間を過ごす時、人はそれぞれ「幸福」を感じることがあると思います。しかし、三木清はまず幸福についての問題提起をします。

「幸福を語ることがすでに何か不道徳なことであるかのように感じられるほど今の世の中は不幸に充ちているのではあるまいか」

    戦前の1938年に書かれたものですが、現在にも通じるのではないでしょうか。

「幸福は人格である。ひとが外套(がいとう オーバーコートのこと)を脱ぎすてるようにいつでも気楽にほかの幸福は脱ぎすてることのできる者が最も幸福な人である。しかし真の幸福は、彼はこれを捨て去らないし、捨て去ることもできない。彼の幸福は彼の生命と同じように彼自身と一つのものである」

「機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等々、幸福はつねに外に現れる。歌わぬ詩人というものは真の詩人でないが如く、単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないであろう。幸福は表現的なものである。鳥の歌うが如くおのずから外に現れて他の人を幸福にするものが真の幸福である」

    合服を着て、往復しながら回復を待つことで、幸福に近づけるかもしれません。

 

アンガーマネジメント

アンガーマネジメント 

 「アンガーマネジメント」最近流行っている言葉のようです。日本語では「怒りの管理方法」ということです。これは「怒らないようにする」のではなくて、「適切に怒りの感情と上手に付き合う」ことを目標にします。

 なぜ人は怒るのでしょうか。「○○すべき」という強いこだわりと、マイナスの感情、状態の二つがそろうことで怒りが発生します。逆に言うと、どちらかを減らすだけでも、怒りを小さくすることができます。

 例えば「時間を守る」ということを考えてみます。時間を守ることに価値観を置かない人はいないと思いますが、その程度は人によってまちまちです。「5分遅れる」ということを、「絶対許せない」と思う人もいれば、「5分くらい、どうってことない」と思う人もいます。また、普段は5分遅刻することを許せる人が、その時の精神状態や、疲労度によっては、怒ってしまうということもあります。また「怒り=よくない感情」ということばかりでもありません。例えば、スポーツの試合で負けた時に悔しさや自分に対する怒りをバネにして練習に励むように、怒りは人を動かすモチベーションとしても有効活用できます。

 さあそれでは、実際に日常生活で怒りを感じた時、どのように対処したらいいのかを紹介します。

1 怒りを静める「6秒ルール」

 怒りの対処術に共通するのは「怒りに反応しないこと」です。怒りを感じたら、まず6秒待って怒りを静めましょう。

2 怒りを点数化する

 平穏な状態を0、人生最大の怒りを10として、怒りに点数をつけます。過去の怒りと比較して、現在の怒りを相対評価すると、今怒るべきか怒らないべきか、感情を選択できるようになります。

3 「○○すべき」という価値観を捨てる

 人によって価値観は異なるものです。「○○すべき」はあくまで個人の理想やこだわりであって、すべての人に通用するものではありません。

 皆さんの周りに、あるいはあなた自身も含めて「切れやすい人」がいませんか。学校や、家庭や、職場等で「怒る」という感情を見つめなおしてみてはいかがでしょうか。戦場で謙譲の心をもって、根性を出して感情をコントロールすると、人情がわかる新たな自分が誕生するかな。

 

法の下の平等

法の下の平等 

 今回は法律の話です。最初から何か難しい話になりそうなので、読むのをやめてしまう人が多くなりそうですが、法律のことをほとんど知らない私でも、「それはおかしい」と思っていることを二つ取り上げます。

 一つ目は、政治家に対するお金の問題です。職務権限(いきなり難しいですが、ある出来事に対して判断を下す力をもつことです)を持つ政治家に対して、便宜を図ってもらうつもりで、ワイロを渡し、実際に便宜が図られたときに、贈収賄(ぞうしゅうわい)という罪が発生します。江戸時代の「越後屋、お前もワルよのう」から始まり、権限を持つ人にワイロを渡し、便宜を図ってもらうことは明らかに犯罪です。しかし「職務権限の有無」や「このお金はワイロではなく、政治献金である」とかいって、政治家たちは贈収賄事件から逃れてきた歴史があります。私たちから見ると、不公平感が満載です。

 もう一つは「刑法犯罪(刑法に触れる犯罪で、殺人や強盗から傷害や窃盗等を含む)」を犯したのに、逮捕されて身柄を拘束されなかったり、裁判を受けなくてすむ場合があることです。「えっ、今の日本で、そんなことがあるのか」と思う人が多いと思いますが、日本にいる外国人(もちろんほとんどがアメリカ人)で、軍隊に属している人たちがそれに当たります。日米安保条約のもとに、日米地位協定が結ばれており、アメリカ軍兵士が日本で犯罪を犯したときに、身柄を拘束して、裁判を行う権利は、基本的にはアメリカ側にあります。そしてアメリカ兵の犯罪件数が一番多いのは、日本で一番アメリカ軍の基地が集中している沖縄県です。特に1995年9月4日に起こった、アメリカ兵3人による少女暴行事件は、計画的かつ卑劣な犯行であり、さすがにこのときばかりは日本の裁判所が実刑判決を出すことで決着し、これをきっかけに地位協定の「運用の改善」は行われました。

    本来は日米地位協定を改訂して、明治時代の「治外法権」のような仕組みを正していくべきだと思われますが、これは実は大変難しい事なのです。日本とアメリカだけの問題ではないからです。アメリカは世界中に軍隊を派遣しており、その派遣国毎に地位協定を結んでいて、国によって突出した協定はありません。それはアメリカが、アメリカ兵を守ろうとしていることから出発しているからです。

 「日本は法治国家である」という言葉が、正しいとは思えない事例二つでした。法治国家を長年カウチに寝そべって放置してきたのが、アウチでした。

 

おいあくま

おいあくま 

 色々なことが、うまくいかないことがあります。いやむしろ、うまくいくことの方が珍しいのかもしれません。うまくいかないと、自分の気持ちの持ちようまで、悪くなってしまうことがあります。さて、そんなときにどうすれば良いのでしょうか。

 「おいあくま」で考えてみましょう。この言葉の出所は、旧住友銀行の元頭取であった堀田庄三さんであると言われていますが、プロ野球の元阪急ブレーブスで、世界の盗塁王と言われ、現在は野球解説者の福本豊さんが、先輩に教わったとも言われています。

お おこるな 怒るな

い いばるな 威張るな

あ あせるな 焦るな

く くさるな 腐るな

ま まような 迷うな  ま は まけるな 負けるな という説もあります。

 どうですか。確かに「おこらず、いばらず、あせらず、くさらず、まよわず」物事に対応できれば、うまくいくような気がします。しかしそういう精神状態を保ち続けることは、とても大変だと思います。逆に「おこり、いばり、あせり、くさり、まよう」ばかり行っている先生(校長、上司)がいたら、その生徒(先生、部下)は、とても大変で「こんなんで、やってられるかい」とちゃぶ台をひっくり返したい気分になると思います。

 関連があると思うので、夏目漱石の「草枕」の冒頭を書いてみます。「智(ち)に働けば角(かど)が立つ。情(じょう)に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈(きゅうくつ)だ。とかくに人の世は住みにくい」

 「よく頭を使ってうまく立ち回ろうとすると、『せこい』『ずるい』『要領が良いだけ』と言われてしまうし、感情に流されてしまうと反対にだまされたり、関わるべきでないことに関わってしまったりして損をしてしまう。じゃあ自分は自分らしく生きようと、好きなことを主張すると、人からひんしゅくを買うばかりになってしまう。私たちの住む人の世は窮屈で住みにくい」

 明治時代の文豪、夏目漱石でも悩んでいました。現代に生きる私たちが悩むのも無理はありません。悩んだときは「おいあくま」を思い出しましょう。実際には、昼間の幕間には、悪魔にもヒグマにも会いたくはありません。

 

アニマルウェルフェア

アニマルウェルフェア 

 「アニマルウェルフェア」あまり聞いたことがない言葉かもしれません。日本語では「動物福祉」や「家畜福祉」と訳されています。動物を「感受性のある存在」と捉え、家畜にとってストレスや苦痛の少ない飼育環境を目指す考え方のことです。家畜やペット、実験動物などが満たされて生きる状態を確立するために、次の「5つの自由」が定められました。1 空腹と渇きからの自由 2 不快からの自由 3 痛みや傷、病気からの自由 4 正常な行動を発現する自由 5 恐怖や苦悩からの自由

 確かに動物たちにも、人間と同じように福祉や自由の権利があるとの認識は必要なことなのかもしれません。しかし・・・

 例えば卵を産むために育てられている採卵鶏には4つの飼い方があります。アニマルウェルフェアの実現度の高い順に「放牧」「平飼い」「エンリッチドケージ」「バタリーケージ」です。日本の主流は「バタリーケージ」よく見る鶏の飼い方で、狭いケージの中に閉じ込められている感じがしますが、92%の採卵養鶏場が採用しています。先日農業科のある高等学校の先生と話をする機会がありました。その学校でも採卵鶏を飼っているのですが、普通のケージ飼いと、平飼いの両方を試されていました。

「アニマルウェルフェアのことを考えると、平飼いの方が良いのですか」

「いや実は平飼いをすると、鶏同士がくちばしで互いをつつきあい、怪我をすることが多いのです。それを避けるためには、かなり広い敷地の中で飼育することが必要で、人手がかなりかかってしまいます。一般の農家さんではなかなか難しいと思います」

    アニマルウェルフェアの考え方で、平飼いや放牧で鶏を育てたとすると、費用がかなりかかってしまうため、卵の値段がかなり上がってしまうことが予測されます。それでも消費者として、高い値段の卵を買うでしょうか。なかなか難しい問題です。

    先日名古屋入国管理局の施設で、スリランカ人の女性が亡くなるという事件がありました。日本では「アニマルウェルフェア」よりも、「人間ウェルフェア」の方が優先順位が高いのかもしれません。

 

いじめ、差別

いじめ、差別 

 今回は重たいテーマですが、いつも以上にしっかり書きますので、しっかり読んでみて下さい。

「あなたはいじめや差別を良いものだと思いますか」

こう問われて「はい」という人は、ほとんどいないと思います。では、

「いじめや差別はいけない、と思う人が大半なのに、いじめや差別がなくならないのはなぜですか」

この問いにきちんと答えられる人は、どれほどいるでしょうか。一つの回答として、

「いじめや差別はたいてい悪意のない人がする」

ということが考えられます。どういうことか、二つの例をあげてみます。

①    「もうすっかり日本人ですね」

    国外から日本に移り住んでいる移住者にたいして、日本語も上手になったので、賞賛の意味でこう言うことはないでしょうか。しかしこれは聞き手にとっては「我々(多数である日本人)は、あなた(少数である移住者)のことを、いまだに完全なる日本人とは見ていない」という前提での発言だと捉え、侮辱的に感じられることがあるようです。

②    「希望をもってください」

    障がいがある人に対して、励ましの言葉としてこう言うことはないでしょうか。しかしこれも聞き手にとっては「健常者から見ると、障がいがありながらの生活には、希望がないという前提での発言である」と聞こえることがあります。

 これらは「意図的に差別をしようと思った」発言ではありませんが、実は多数派の価値観に根ざした言葉と捉えられ、結果として聞き手には不快な思いをさせてしまうものです。こう考えると、私も知らないうちに、人を傷つけるような発言や態度をしたことがあったのではないか、とても不安に思います。性別、障がい者、セクシャル・マイノリティ、移住者等に対して、自分が立つ位置によっては、ある意味「特権」を持っていることが見えにくくなってしまいます。

「差別は私たちが思うよりも平凡で日常的なものである。固定観念を持つことも、他の集団に敵愾心を持つことも、極めて容易なことだ。誰かを差別しない可能性なんて、実はほとんど存在しない」ので、「私たちが生涯にわたって努力し磨かなければならない内容を『差別されないための努力』から『差別しないための努力』に変える」必要があります。登別で判別できるようにキャベツを食べながら、差別を考えましょう。

 

猫の話

猫の話

 「我が輩は猫である。名前はまだない。」これは夏目漱石のデビュー作「我が輩は猫である」の書き出しです。今回は猫の話です。ちなみに我が家の飼い猫は「みーちゃん」と言います。

 大変忙しくて、人手不足のときには「猫の手も借りたい」と言います。「猫の手」では役に立たないと言うことが前提にあることを踏まえたことわざです。「猫に小判」は猫には小判の値打ちは分からない、と言うことを前提に「価値の分からない人に貴重なものを与えても、何の役にも立たないことのたとえです。他にも「猫をかぶる」「ネコババ」等、あまり良くないたとえに使われている例が多いような気がします。また、12の動物が出てくる干支には、戌年はありますが、猫年はありません。

 では外国を見てみましょう。フィンランドのことわざに

「『やり方はいくらでもある』と、おばあちゃんは猫でテーブルを拭きながら言った」

というものがあります。これは「意外なところに道がある、解決策は一つではない」という意味だそうです。実際に猫でテーブルを拭くことはないでしょうが、背景にはフィンランドに息づく「sisu(シス)」の精神があるようです。sisuは「勇敢で、粘り強く、忍耐強く、諦めない姿勢と態度」のことで、「フィンランド魂」と訳されることもあるようです。フィンランドは極寒の国ですから、このような言葉が生まれてきたのかもしれません。コロナ渦の今、見習いたい姿勢と態度でしょうか。

 「我が輩は猫である。名前はみーちゃんという。」という書き出しで、木村漱石も小説を書いてみましょうか。

 

悩み、不安、心配事

悩み、不安、心配事

 生徒の皆さんは、悩みや不安、心配事がありますか。全くないという人はいないかもしれません。高校生の年代だと、勉強の事、進路についての事、友人関係や、自分の容姿についての悩みもあるかもしれません。最近だと「新型コロナに感染したらどうしよう」という不安もあります。年齢を重ねるにつれて、心配事は変化していく場合が多いです。私のような年齢になると、自分や親の健康問題等が気になってきます。

 さて、悩みや不安を感じたときはどうしたら良いのでしょうか。解消方法は人によって様々だと思いますが、やはり自分以外の人に相談してみることが一番ではないでしょうか。自分が信用できる相談相手がいるとすれば、それは大変ありがたいことです。自分の親や、友人はもちろん、高校の先生やキャンパスカウンセラーの先生等も相談に乗ってくれると思います。最近だとSNSを使って聞いてみるという方法もあるようです。

 しかし、誰に相談したところで、自分の気持ちが変わらなければ、悩みは解消されません。他人には「何だ、それくらいのことでクヨクヨするな」と思われることでも、自分としては「夜も眠れないくらい悩んでいる」ことはよくあることです。ではどうすれば良いのか。まず一つ目は

「心配事の9割は、実際には起こらない」

    こういうタイトルの本も出版されていますし、アメリカの科学者による研究結果もあるようです。二つ目は

「なんくるないさ」「ケ・セラ・セラ」

    沖縄の方言である「なんくるないさ」と、スペイン語の「ケ・セラ・セラ」は同じような意味で「大丈夫、たいしたことはないよ、きっとうまくいく」という意味です。三つ目は

「先のことではなく、今できることに集中せよ」

    禅宗に「喫茶喫飯(きっさきっぱん)」という言葉があります。「余計なことは考えず、お茶をいただくときには、お茶を飲むことだけに集中して、ご飯をいただくときにはご飯を食べることだけに集中しなさい」という意味です。

 皆さんも悩み、不安、心配事があれば、人に相談して、自分の気持ちの持ちようを考えてみて下さい。相談するときは、階段を使って降壇しながら行いましょう。

 

宇宙人と出会う前に読む本

宇宙人と出会う前に読む本

 生徒の皆さんは、宇宙人は存在すると思いますか。私は小さい頃から「宇宙人はどこかにはいる」と思ってきました。「宇宙はものすごく広いから、どこかの星には地球と同じような星があるに違いない」というのが理由です。

 今回は、筑波大学研究員の高水裕一さんが書いた、講談社ブルーバックス「宇宙人と出会う前に読む本」から紹介します。この本では、「地球人」と「宇宙人」が交流するという架空の話を通して「地球での常識と宇宙での常識」を考えるという内容になっています。以下、いくつか紹介します。

①    あなたはどこから来たのですか。

 「地球という惑星から来ました」これでは全く通じません。正解は「天ノ川銀河の中心から約2.6万光年離れたG型恒星(緑色や黄色をした軽量型の恒星)である太陽を公転する惑星のうち、内側から3番目にある地球から来ました」

②    あなたは何でできていますか。

「私は原子でできています。現在の地球の素粒子物理学では、物質の究極の最小単位は電子とクォークであると考えられていますが、あなたの惑星ではどうでしょうか」現在地球で用いられている元素の周期表は、宇宙でも通用します。

③    あなたたちの太陽と月は、いくつありますか。

「地球では太陽も月も一つです」そんな惑星は、宇宙では大変珍しいものです。すべての恒星のうち半分以上は「連星」で三重やそれ以上の連星もあります。太陽が二つ、三つある場合は、日の出や日の入りを定義したり、そもそもカレンダーをどのように作るのか、とても大変です。また月のような衛星の数も、太陽系ですら水星と金星にはありませんが、火星は二つ、木星は72個、土星は53個となっています。日食や月食が頻繁に起こることになります。

    他にも、「あなたは左右対称ですか」「エネルギーは何を使っていますか」等、地球人の常識が、宇宙人の常識とは異なる事例が述べられています。自分たちの物事の見方を考え直す、とても面白い本でした。見方を考えるためには、味方を多くして、少なくとも三方から見つめ直すことが必要です。