校長室より

校長室より

道半ば 

道半ば 

 もう20年くらい前の話です。私より5歳くらい年配で、大変お世話になったある中学のバスケットボール部顧問の先生がいました。当時は高校生はハーフ20分の前後半、中学生はハーフ15分の前後半で試合をしていましたから、高校の先生が中学の大会で審判をすると「短いな、もう終わり」と感じたし、中学の先生が高校の大会で審判をすると「いつまで続く、長いな」と感じたはずです。その先生がその年の3月で日本公認審判(現在のシステムでは、B級公認審判 当時中学の先生で日本公認審判の資格を持っている人は少なかった)をリタイアすることになり、お疲れ様の宴会をしたときの話です。

 「私は公認審判はリタイアしますが、バスケットボール部顧問としてはこれからも頑張っていきます。まだまだ道半ば(みち なかば)です」

 この言葉はもともとは「どこかへ行く途中」という意味ですが、多くは「何かを成し遂げる途上」という意味で、まだ達成できていない事を表します。この先生の「道半ば」という発言を今でも覚えています。それまでもチーム作りに尽力し、多分普通の中学の先生の仕事も、求められる以上のことをやってきたと思います。それでも「道半ば」ということは、私なんて「鼻くそ」みたいな物だなと思いました。

 私も60歳を過ぎ、世間ではリタイアの年齢に入りつつあります。本来でしたら「これまで良くやってきたな」と振り返って自分を褒めたいところですが、まだまだ「道半ば」だと思っています。もうしばらくは、香寺高校をより良い学校にするために、頑張っていきたいと思っています。

 道半ばでは、若葉の季節に、近場の酒場で飲み過ぎて、墓場へ行ってしまってはいけません。

 

世阿弥 最後の花

世阿弥 最後の花 

 室町時代の有名な猿楽師である世阿弥です。観世流の能として現代にも受け継がれていますし、著書である「風姿花伝」は能の理論書としても、また芸道書とも読め、昔から多数の読者を獲得してきました。

 三代将軍の足利義満に気に入られ、名声を得ますが、六代将軍足利義教からは弾圧を受け、罪のないまま72歳にして佐渡島へ流刑されてしまいます。世阿弥の佐渡での様子を著した小説が藤沢周さんによる「世阿弥 最後の花」です。

 実は世阿弥についてはよく分かっていないことが多くあり、佐渡へ流されたのは間違いないようですが、その後許されて京に戻ったという説と、佐渡で生涯を閉じたという説があります。

 藤沢周さんは、史実を踏まえながらも、佐渡で出会う魅力的な人間を多数配置し、老いた世阿弥が「最後の花」を咲かせる舞台を創造していきます。この小説を書くにあたり、彼自身も観世梅若流(かんぜうめわかりゅう)の謡(うたい)と仕舞(しまい)を稽古するようになり、文章に説得力が増すことになります。昔から罪人が流されてきた佐渡島ですが、その地にあって、世阿弥が亡き父親や息子を思い、ほぼ命がけで雨乞立願能(あまごいりつがんのう)を舞い、佐渡の仲間たちと「西行桜」を完成させる。私も読みながら佐渡島で能舞台を見ているような気分になりました。

 能は、Noと言わずに、Know(知っておく)べきものですね。

 

 

老化は進化

老化は進化 

 「老化」は「進化」です。すごいフレーズですが、小泉今日子さんの発言です。小泉今日子といえば、1982年にデビューした「アイドル」で、この年は堀ちえみ、三田寛子、石川秀美、松本伊代、早見優、中森明菜、シブがき隊と「花の82年組」がデビューした、キラキラの年です。KYON2(キョンキョン)の愛称でも知られますが、彼女も芸能活動40周年を迎え、56歳になりました。

 「老化は進化です。40代ぐらいからちょっとずつ自分の変化を・・・心も体も感じながら生きているんですけど。56歳になった今、感じるのは、自分が思っているより世界はずっと広くて、その広さが反比例みたいな感じで、年を重ねるごとに広くなっていくっていうイメージですね」

 「物はとらえようで、老眼になったりしたら『ここまでやっときた』『みんなが言っていたのはこれなんだ』みたいな。そういうのを楽しんでいる」

 「今度は老人のイメージとか価値観を変えていきたい。新しい価値観を何か見つけて、みんなに提示したかったりする。例えば、朝クラブに集まるとか、そういうのを考えるのが楽しい」

 当時の若者たちに大人気だったKYON2です。私が大学生の時に、学園祭にKYON2が歌いにやってくることが決まり、大騒ぎになって、大騒ぎになりすぎて、結局中止になったことを思い出します。「なんてったってアイドル」ですから、AドルやBドルではなくて、Iドルですね。

 

 

非家の人

非家の人 

 読書をしていると、それまで自分が知らなかった言葉を発見することがあります。私にとっては「非家(ひか)」という言葉もそうでした。この言葉は「専門家ではない、素人(しろうと)である」という意味だと知りましたが、この言葉の使用例として、兼好法師の「徒然草」第187段が挙げられていました。

 万(よろず)の道の人、たとひ不堪(ふかん)なりといへども、堪能(かんのう)の非家(ひか)の人に並ぶ時、必ず勝る事は、弛み(ゆるみ)なく慎しみて軽々しくせぬと、偏へ(ひとえ)に自由なるとの等しからぬなり。

 芸能・所作のみにあらず、大方の振舞・心遣いも、愚かにして慎めるは、得の本なり。巧みにして欲しきままなるは、失の本なり。

 それぞれの道の専門家は、専門家の中では劣っていても、素人の中で上手な人と並んだ時には、必ず勝つようになっている。これは、専門家がこれこそが自分の生きる道(天職)であると思い、その技芸・知識を慎んで訓練して軽々しく扱わないことと、素人が自由気ままに練習して上達を目指すことの違いである。

 芸能や儀礼の所作だけではなくて、普段の振舞いや心づかいにしても、自分の未熟さを認めて慎むのであれば、熟達・成功の原因となる。技術が優れているからといって好き勝手にやるのは、失敗・失策の原因である。

 「万の道の人」は「非家の人」に負けるはずがない。なるほど、プロゴルファーとアマチュアゴルファー、プロ将棋棋士とアマチュア将棋棋士、これは勝てそうにないですね。ではベテランの先生と初任の先生、ではどうでしょうか。ちょっと怪しい気持ちもしてしまいます。「愚かにして慎める」ことが大事です。非家の人に負けないように、イカをヌカ漬けして食べながら、丘を散歩して、坂を登り、墓参りをしましょう。

 

 

サイエンス コミュニケーション

サイエンス コミュニケーション 

 サイエンス コミュニケーション。あまり聞いたことがない言葉です。「科学に関する意思疎通」とも言うようですが、ますます良く分かりません。

 桝 太一(ます たいち)さんは、日本テレビのアナウンサーで、いろいろな報道番組の司会等をやっていましたが、2022年3月に退職して(これまで通り、いくつかのテレビ番組には出演している)同志社大学ハリス理化学研究所の専任研究所員に転出しました。その動機は「サイエンス コミュニケーションについてもっと深く考えて実践したいから」というものでした。

 桝さんは、東京大学農学部でアサリの研究を行い、修士課程を終了したバリバリの理系人間です。アナウンサーとして就職して、科学番組にも携わりましたが、テレビ局の持つ「サイエンスリテラシー」の欠如に違和感を持ったようです。

 京都大学iPS細胞研究所名誉所長の山中伸弥さんも、感染症については専門外としながらも、今回のコロナ渦について、多くの発言をしてきました。その上で、次のように述べています。「科学を進歩させることも大切ですが、難しく感じる科学を一般の方にわかりやすく、かつできるだけ正確に伝える科学コミュニケーションも非常に重要です。それも研究者にとって大事な仕事の一つだと私は考えています」

 「社会の役に立つ研究や学問をするべきだ」という意見もあります。しかし例えばプロのスポーツ競技について「社会の役に立つプロのスポーツ競技をすべきだ」という意見は聞いたことがありません。サッカーでも野球でも好きな人は純粋に好きだから、面白い・感動する・成長できるから競技をしたり、応援をしたりするわけで、そういった意味で、科学も文化の一つとして広まって欲しいと思います。

 手前味噌ですが、香寺高等学校美術工芸部の皆さんと、私による「理科の散歩道」も、科学の普及に少しでも貢献できたらなと思っています。科学や医学は、苦学しながら、長く、磨くことが望まれます。

 

新しい資本主義

新しい資本主義 

 どこかの国の総理大臣が「新しい資本主義」などと言っています。資本主義をどのようにとらえるかは難しいと思いますが、「大量生産、大量消費」「貧富の格差の拡大」「環境に優しくない」等、問題点はたくさんあるように思います。だからといって、資本主義に代わる夢のようなシステムがあるかと言われると、これもまた難しいのが現実です。

 ヤニス・バルファキスという人が書いた、原題「ANOTHER NOW(日本語では「もう一つの現在」くらいが適切)」という本の日本語訳が「クソッたれ資本主義が倒れたあとの、もう一つの世界」というかなりぶっ飛んだタイトルで出版されました。著者のヤニス・バルファキスという人は、ギリシャ出身で経済学の学者ですが、2015年ギリシャが全国的な経済危機に陥ったときに、チプラス政権の財務大臣に就任し、財政緊縮策(国の予算を小さくする策で、良い面もなくはないが、庶民は困ることが多い)を迫るEUに対して大幅な債務減免(国の借金を、なかったことにしてくれという無茶な話)を主張し、注目を集めた人物です。

 この本の内容を紹介するのは至難の業なのですが、やってみましょう。一言で言えばSFです。現在の資本主義の世界と、それを劇的に改善してできた架空の世界を比較し、個性的な登場人物5人に自由に語らせたという形式です。1980年代、イギリスのサッチャー首相が「There is No Alternative」「(資本主義、市場主義のほかに)選択肢はない」の頭文字を取って「TINA(ティナ)」と言ったのに反対して「That Astonishingly There is An Alternative」「驚くことに選択肢は存在する」の頭文字を取って「TATIANA(タティアナ)」を主張しました。一つの想像上の理想的な社会を考案するのですが、その実現のためには名もなき庶民1人1人の努力と貢献と行動が欠かせないと書かれています。この架空の世界では、商業銀行、株式市場、上司と部下の関係、その他「当然のように存在すると思われるもの」が全く存在しません。まさにSFなのですが、私は絵空事だと笑い飛ばす気にはなれませんでした。

 資本主義の代わりはないことはない。日本にも手本となる見本を作り、絵本になるような基本を大切にしましょう。

 

「正常」が狭められていく 

「正常」が狭められていく 

 私たちは体調が悪いとき、病院へ行って検査を受けますよね。検査の結果「どこも悪いところはないです」と言われることはよくあることです。でも何か病名をつけてもらいたかったり、薬を出して欲しかったりします。これは「正常」な事なのでしょうか。

 人類学者の磯野真穂さんが新聞に書いていました。彼女は大学院生の時に摂食障害の研究を始めました。当時、摂食障害は「拒食症」と「過食症」の大きく二つに分けられていました。ところが「摂食障害の種類がどんどん増えていく」事に気づき、大学院の教授にその理由を尋ねてみました。答えは次のような、びっくりするものでした。

 「新しい疾患を確立すると、それが学者の業績となるから」

 学者の業績のために、新しい疾患が生み出され、その病名をつけられた「患者」からは「自分の状態に病名が与えられ、ようやく肩の荷が下りた」と歓迎される。これは不幸になる人を誰もつくらない、八方良しの状態なのでしょうか。しかし磯野さんは「これはまずい」と考えました。

 「あるべき状態」から外れている人たちを発見し、その人たちに病名を与え、治療の枠組みを確立することは、「正常」の範囲を狭められていく作業に他ならない。そのよい例が、注意欠陥多動性障害(ADHD)である。アメリカの子どもたちの15%がADHDと診断され、その大半が投薬を受けている。この背後には、製薬会社の多額の投資、子どもを薬物で鎮め、願わくば学力向上を図りたい大人の思惑、不明瞭な診断基準があるのではないか。「落ち着きがないのが子ども、という考えはもう古い」としてしまって本当に良いのか。

 人間をどんどん分類していって「障害」が増え続けていくのは、本当に正しいことなのでしょうか。あらゆる事に対して「正常」な人は、本当にいるのでしょうか。色々なことを考えさせられました。正常は、水上で愛情を持って、形状に注意して、退場しないように、平常で最上の結果を求めましょう。

 

 

キーウから遠く離れて

キーウから遠く離れて 

 歌シリーズが続きます。それくらい「私もこの戦争をやめさせることに、何か貢献できないだろうか」と感じているミュージシャンがたくさんいるということです。さだまさしさんの「キーウから遠く離れて」という曲です。歌詞の一部を紹介します。

 わたしは君を撃たないけれど

 戦車の前に立ち塞がるでしょう

 ポケット一杯に花の種を詰めて

 大きく両手を広げて

 わたしが撃たれても

 その後にわたしが続くでしょう

 そしてその場所には

 きっと花が咲くでしょう

 色とりどりに

 さださんがテレビ番組に出演され、この曲を披露するときの話です。

 今度の戦争ってライブで中継があるじゃないですか。ウクライナの老婦人がロシア兵に向かって「帰りなさい!」って抗議しているシーンが流れたんですよ。その人が「あんた、ポケットにひまわりの種、入れておきなさい。あんたが死んだ後、私がその花を眺めてやるから」っておっしゃった。それが胸にこたえましてね。命の捉え方っていろいろあるな、と思って。

 僕は音楽家なので、銃は撃たない、と決めているんですね。じゃ、銃を撃たない僕がどうやって大切な人を守れるんだろうって随分考えたんです。方法は一つしか思い浮かばなかったですね。それは「戦争を始めさせない」っていうことしかないと思うんです。そのためにやっぱり音楽があり、人の心があり、言葉があると思います。きっと言葉は届くと信じてます。音楽っていうのはきっとそういうものだと思うんですよ。痛みだとか悲しみだとか喜びだとか、そういうものを声を出して共感する、元気に変えていく、音楽にはそういう力があると信じています。

 さださんは今年70歳(!)、現役のシンガーソングライターとして活躍中です。70歳は「古希」と言います。「古来希なり(こらいまれなり これだけ長生きをするのは珍しいことだ)」私も古希に向かって、飽きの来ないように、息長く、先を見据えて、好きなように、時を重ねたいと思います。

 

数字のマジック

数字のマジック 

 健康ドリンクか、栄養ドリンクかは忘れましたが、昔こんな宣伝文句がありました。

 「有効成分○○○、1000ミリグラム配合」

これは実は「有効成分○○○、1グラム配合」と同じことですよね。ではなぜ1グラムではなくて、1000ミリグラムを使ったのでしょうか。人間の耳には、1より1000の方が多いように聞こえるからに他なりません。私はこの数字のマジックは、限りなく詐欺に近いものがあるように思います。

 これは、ロシアがウクライナに攻めてきたから、日本を守るために「防衛費を引き上げて、GDPの2%にしよう」という話と似たところがあると思っています。これまで日本という国は、防衛費はだいたいGDPの1%程度を保ってきました。人間の耳には、1%を2%に引き上げることは、小さな金額に聞こえてしまいがちです。しかし、お金の数え方は金額と予算に対する割合で行うことが正しいと思います。

 そこで財務省のホームページより、金額と割合を見てみましょう。22年度一般会計歳出総額107兆6000億円、防衛費5兆4000億円、予算に対する割合は5.0%となります。この金額を2倍にするということは、10兆8000億円、予算に対する割合では10%になります。当然、小さな金額ではありません。

 世界では、軍事費の大きさを対GDP比で数えていることは事実です。また、日本の防衛費の数え方と、NATOの軍事費の数え方は一致していません。NATOの予算では、退役軍人年金や沿岸警備隊の経費、国連平和維持活動(PKO)拠出金等を軍事費にカウントしていますが、日本の防衛費では除外されています。これも見かけ上、防衛費を小さく見せようという忖度があるからなのかもしれません。

 ドリンクの有効成分は大きく見せよう、日本の防衛費は小さく見せよう、数字のマジックに引っかかってはいけません。数字は、冬至の日に、掃除をしながら、工事をして、法事の用事を済ませてしまいます。

 

大河への道

大河への道 

 「シン・ウルトラマン」に続き、今回も映画「大河への道」の紹介です。落語家の立川志の輔さんが、千葉県香取市にある「伊能忠敬(いのう ただたか)記念館」を訪れて、伊能忠敬が製作した「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず 輿地というのは地球もしくは世界のことです)」を見て感動して作った創作落語「伊能忠敬物語 大河への道」を原作として製作された、コメディタッチの現代劇でもあり時代劇の映画です。

 生徒の皆さんもそうだと思いますが、私も「大日本沿海輿地全図」は伊能忠敬が製作したとばかり思っていました。しかし伊能忠敬は1818年に74歳で亡くなっており、地図の完成は伊能組の多くの人たちの努力により、その3年後の1921年になりました。伊能忠敬は村の名主を務めた後、隠居していましたが、50歳(その当時の平均寿命を超えている?)から測量や天体観測を学び、地図の製作を始めました。まさに福澤諭吉の言葉にあるような「一身にして二生を経る」という人生です。この地図は現在の宇宙からの人工衛星写真と比べても、ほとんど一致するほどの正確さです。幕末に開国後の1861年にイギリス海軍が、日本沿岸の測量を強行しようとした際、伊能忠敬の地図を見て、その優秀さに驚いて測量を中止したという程の出来映えでした。

 さて、映画の方は中井貴一、松山ケンイチ、北川景子その他の俳優達が、令和の今の時代と、江戸時代に伊能忠敬が亡くなってから地図を完成する時代との一人二役で物語が進みます。笑いあり、涙ありの素晴らしい作品になっています。チョイ役(と言うと怒られそうですが)で出てくる俳優さん達も、素晴らしい活躍でした。いやー、映画って本当に絵画のようで、大河ドラマになるような名画が多いですね。