校長室より

校長室より

桜桃忌

桜桃忌

 6月19日は、作家太宰治の命日で「桜桃忌(おうとうき)」と呼ばれています。この名前は、同郷の作家「今官一(こん かんいち)」によって命名されました。ご存じのように、太宰治は38年の生涯を心中自殺で終えましたが、国語の教科書にも掲載されている「走れメロス」や「斜陽」「人間失格」等の小説で、よく知られた存在です。

 これまで私は、桜桃忌という名前のもとになった「桜桃」という小説を読んだことがありませんでした。他にも有名な作品は多いのに、なぜ桜桃なのだろう、と思っていました。さて、「桜桃」は太宰の死の一月前の5月に執筆された、文庫本で10ページ余りの短編小説です。太宰と思われる小説家の主人公と、3人の小さな子供を抱えた奥さんとの「夫婦喧嘩」の小説です。冒頭は「子供より親が大事、と思いたい」で始まります。晩年の太宰はこうした本来あるべき言葉を「逆に」使用することが多かったそうです。一般的には「親より子供が大事」というべきところです。そして、夫婦喧嘩に耐え切れずに家を出て、酒を飲みに入った店で「桜桃が出た」。そこまでのシーンは、苦しい生活や子供のことが述べられていて、色彩的には、暗い、グレーな感覚が続いていたのです。残り7行となった、最終盤に、桜桃です。そこでパッと鮮やかな色彩が目に浮かびます。ミカンやリンゴではダメだったでしょう。ここはサクランボが相応しい。桜桃によって、キリリと引き締まった感じがする作品になっていると思いました。

 サクランボも応答しないと、高騰して、封筒に入ってしまいます。

 

 

みんなちがって、みんないい

みんなちがって、みんないい 

 毎年8月後半には、中学生向けのオープンハイスクールが実施されます。今年の中播磨地区は8月23日、24日に予定されています。香寺高校学校ではこの日に向けて、中学生向けのパンフレットを作成するのですが、その中に「みんなちがって、みんないい」というフレーズが取り上げられています。ご存じの方も多いと思いますが、金子みすゞさんの「私と小鳥と鈴と」という詩の一節です。

 私が両手をひろげても

 お空はちっとも飛べないが

 飛べる小鳥は私のやうに、

 地面(じべた)を速くは走れない。

 私がからだをゆすっても、

 きれいな音は出ないけど、

 あの鳴る鈴は私のやうに

 たくさんな唄は知らないよ。

 鈴と、小鳥と、それから私、

 みんなちがって、みんないい。

 金子みすゞさんは1903年に山口県で生まれ、約500編の詩を遺しましたが、26歳の若さで亡くなります。没後半世紀はほぼ忘却されていましたが、1980年代に脚光を浴び、再評価が進みました。

 現代は多様化の時代ですから「みんなちがって、みんないい」というフレーズには説得力があります。多様化については、さようか、という寛容の心が大切です。

 

 

給料はあなたの価値なのか

給料はあなたの価値なのか 

 アメリカの社会学者であるジェイク・ローゼンフェルドさんが書いた「給料はあなたの価値なのか(みすず書房)」という本を紹介します。

    私たちが労働の対価として受け取る給料ですが、その額はあなたの市場価値の反映なのでしょうか。この本の著者による大規模なアンケート調査によると、給料をもらう人も、給料を払う人も、給料額を決定する要因として最も大切なものは「個人の成果」だと考えていました。それが事実だとすると、高い給料をもらう人は、個人の成果が優れているということになりますが、著者はその考え方を全否定します。その考え方は「神話(昔から伝えられてきているが、事実とは異なる)」であるとしました。

   給料を決定する要因は「権力、慣性、模倣、公平性」の4つだとします。そうすると、コロナ渦の中で注目された「エッセッシャルワーカー」医療・福祉、保育、運輸・物流、小売業、公共機関等に従事する人たちの給料が、安すぎることになります。アメリカでは(日本でも)巨大企業の経営者の給料は異常に高くなっています。これは行き過ぎた「株主資本主義」のためであり、株主の利益と経営者の利益が一致し、企業に留保された資本が株主と経営者に向かい、従業員の給料上昇に結びついていません。

 では、どうすれば改善されるのか。最低賃金を大幅に引き上げる、経営者等の多額の給料には大きな税金をかける。Amazonやスターバックスでも始まった、労働者の組合を結成する。年功序列の給与体系を導入する。色々な提案がなされています。

 改めて「給料はあなたの価値ではない」ということが分かりました。あなたの価値を決めるものは、土地の土を耕し、町を支え、道を守り、口を出す余地を作り、素晴らしい落ちを考えることです。

 

晴れの日は枝が伸びる

晴れの日は枝が伸びる 雨の日は根が伸びる 

 実業家の福島正伸さんの言葉です。私も初めて聞いた言葉なのですが、含蓄があるな、と思ったので紹介します。

 日によって天気は異なります。晴れの日も雨の日もあります。一般的には、晴れの日が良くて、雨の日は悪いという感覚ですが、植物にとって、またため池やダムにとっては、雨はなくてはならないものです。1人の人の人生にも、晴れの日も雨の日もやってきます。天気がどうであれ、植物は生長していきます。人間も同じで、成長を続けるのですが、伸びる部分が異なるというわけです。

 例えば物事がうまく行っているときは「これは晴れの日だから、枝が伸びている」と思えます。逆に困難に直面したときは「これは雨の日だから、苦しいけれども、今は根が伸びている時期であると考えて、何とか頑張ってみよう」と思うようにしましょう。

 どちらかというと、うまく行くことの方が少なくて、しんどい思いや、つらい思いをする方が多いのですが、気持ちの持ちようでかなり異なることも事実です。苦しい時こそ、自分のこれまでの経験や、昔の人たちの考え方を参考にすることが大切です。

 伸びるのは、身長や体重は結構なのですが、麺類は伸びると美味しくありません。

 

 

道半ば 

道半ば 

 もう20年くらい前の話です。私より5歳くらい年配で、大変お世話になったある中学のバスケットボール部顧問の先生がいました。当時は高校生はハーフ20分の前後半、中学生はハーフ15分の前後半で試合をしていましたから、高校の先生が中学の大会で審判をすると「短いな、もう終わり」と感じたし、中学の先生が高校の大会で審判をすると「いつまで続く、長いな」と感じたはずです。その先生がその年の3月で日本公認審判(現在のシステムでは、B級公認審判 当時中学の先生で日本公認審判の資格を持っている人は少なかった)をリタイアすることになり、お疲れ様の宴会をしたときの話です。

 「私は公認審判はリタイアしますが、バスケットボール部顧問としてはこれからも頑張っていきます。まだまだ道半ば(みち なかば)です」

 この言葉はもともとは「どこかへ行く途中」という意味ですが、多くは「何かを成し遂げる途上」という意味で、まだ達成できていない事を表します。この先生の「道半ば」という発言を今でも覚えています。それまでもチーム作りに尽力し、多分普通の中学の先生の仕事も、求められる以上のことをやってきたと思います。それでも「道半ば」ということは、私なんて「鼻くそ」みたいな物だなと思いました。

 私も60歳を過ぎ、世間ではリタイアの年齢に入りつつあります。本来でしたら「これまで良くやってきたな」と振り返って自分を褒めたいところですが、まだまだ「道半ば」だと思っています。もうしばらくは、香寺高校をより良い学校にするために、頑張っていきたいと思っています。

 道半ばでは、若葉の季節に、近場の酒場で飲み過ぎて、墓場へ行ってしまってはいけません。