校長室より
その他の外国文学
その他の外国文学
前回は新聞の書評欄について書きましたが、その中で「先に私が読んで、後で新聞の書評欄に取り上げられた」ことがある話をしました。今回はそれに該当した書籍「『その他の外国文学』の翻訳者」という本を取り上げます。私が図書館で借りて読んでいて、4月9日の毎日新聞の書評欄で紹介されました。
この本は2022年2月末に「白水社」から発行されました。白水社のwebマガジン「webフランス」に連載された原稿を加筆修正して書籍にしたものです。
「その他の外国文学」とは何の事でしょうか。外国語で書かれた文学作品を日本語に翻訳して出版するときは「英文学」「フランス文学」「ロシア文学」という風に分類されます。いわゆるマイナー言語による文学作品を「その他の外国文学」と一括りにしている訳です。この本では、9つの言語を取り上げていますが、例えば「ベンガル語」はどこの国で用いられている言語でしょうか。正解はバングラデシュとインドの西ベンガル州です。私たち日本で暮らす人々は、1つの国に1つの言語があると思いがちですが、世界を見渡すとそうではありません。ポルトガル語はもちろんポルトガルで用いられますが、話者分布で言うと8割の人数がブラジルです。アフリカのアンゴラでも公用語になっています。
「バスク語」の話者はスペインとフランスにまたがっていますが、この言語はスペイン語ともフランス語とも全く異なる言語です。ほとんどのヨーロッパ言語は「主語+動詞+目的語」の順番ですが、バスク語は日本語と同じ「主語+目的語+動詞」の順番です。またマイナー言語を学ぶときの苦労話も満載です。辞書がない、文法書がない、その国に留学して学ぼうとしても講座がない、国民の中でどの人がその言語の話者なのかが分からない等、本当に大変なのですが、その言語と文学に魅せられて、何とか日本の人に紹介したいという熱い情熱を感じ取ることができました。
外国語というと、まず英語ということになってしまいますが、世界には数多くの言語が存在します。リンゴを食べながら、タンゴを踊りながら、サンゴを愛でながら、今後のことを考えましょう。
書評のすすめ
書評のすすめ
「木村校長はたくさん本を読んでいるようですが、どうやって探しているのですか」と聞かれることがあります。私が書籍を探すのは、まず姫路駅のビオレにある「ジュンク堂書店」です。しょっちゅう徘徊していますので、見かけたら声をかけて下さい。もう一つは姫路と加古川の市立図書館です。買ったり、借りたりするのは主にこの2つです。
では、新刊の図書で読むべき本をどうやって見つけているのか。これは新聞の「書評」から探すことが多いです。各新聞には、週一回書評が掲載されます。以前は日曜日が多かった(今は読売だけ日曜日)のですが、最近では土曜日が多くなっています。土曜か日曜に図書館へ行き、朝日、毎日、読売、神戸、日経の各紙の書評欄をチェックします。個人的には、朝日と日経の書評欄が充実しているように思います。書評はある程度の専門家がその書籍の紹介、特に「良い本だ」と紹介している場合がほとんどなので、それを見て書店や図書館で探すことにしています。
何回か経験があるのですが、先に買ったり借りたりして読んだ本が、後で書評欄に紹介されるケースがあります。このときは「やったった」とガッツポーズをします。私の方に先見の明があった、ということです。皆さんも新聞の書評欄を読んでみると、意表をつかれた、不評な批評に出会えるかもしれません。
なぜ嘘をついてはいけないのか
なぜ嘘をついてはいけないのか
皆さんは小さいときに両親や先生から「嘘をついてはいけません」と言われたことはありませんか。私はあります。でも、なぜ嘘をついてはいけないのかを考えたことはありますか。「嘘も方便」という言葉もありますから、一概に嘘は全部ダメとは言えないのではないでしょうか。
ドイツの哲学者でカントという人がいました。カントは「実践理性批判」という著書で次のように書いています。
「君の意思の採用する行動原理が、常に同時に普遍的な法則を定める原理としても妥当しうるように行動せよ」
自分の行為が道徳的に正しいのか、疑問に思ったときは、もし皆が自分と同じ事をした場合、社会がどうなるかを想像してみれば良い。皆が自分に都合の良い嘘をついていたら、この社会は成立するだろうか。無理だろう。だから嘘をついてはいけないのだ。良き行為をしたければ、じっくり考えれば良い。
死んだら無になると思うと、自分勝手な思いを抑えられなくなるかもしれない。だが、自分の中には永遠に生きる可能性が秘められていると思えるのなら、もしくは、自分は無限に向上していけるのだと思えるのなら、今からでも利己心に打ち勝ち、道徳的行動しようと思える。
どこかの国の大統領や、どこかの国の世襲の政治家たち、大企業経営者たちに聞かせてやりたい話です。もちろん、私も含めて皆さんにも考えてもらいたいと思います。カントは、ホントにマントを着て散歩して、良く生きるヒントをタント考え出しました。
勇気とは
勇気とは
生徒の皆さんには勇気がありますか。勇気とは何なのでしょうか。
古代ギリシャの哲学者で、アリストテレスという人がいました。アリストテレスは、ソクラテスの弟子のプラトンの弟子にあたる人です。そのアリストテレスはこんな風に考えました。
「最善は常に2つの悪例の中間に存在する。つまり中庸こそが美徳である」
この考え方は現代に生きる私たちから見ると「中庸というのは中途半端な考え方」「足して2で割るということは、どっちつかずではないか」と思えてしまいます。しかしアリストテレスは「勇気」について次のように考えました。
「勇気とは、無鉄砲と臆病のちょうど中間のことである。両極端の悪い例と等しく距離をおくことを最善とする」
臆病すぎると、勇敢な行動は取れない。かといって無謀なのも勇気とは違う。何も怖くない、心配したことなど一度もない人がいたとしたら、その人は勇敢ではなく、ただ無謀なだけだ。真の勇気とは、少なくともどこかで不安を感じつつ、それを克服して行動することだ。無謀であることと、臆病であることから等しく距離を置くというさじ加減は決して簡単なものではない。人間はその難しい調整を肝に銘じなければならない。ということです。
現代では、極端な考え方がもてはやされている感じがあります。それだけではなくて、ソクラテスの中庸が美徳という考え方も大切だと思います。勇気とホウキを持って、早期に納期を守ってくれと、言う気はありません。
食育のあれこれ
食育のあれこれ
今から15年くらい前に「食育」という言葉が流行しました。生徒の皆さんは聞いたことがありますか。食育とは何の事なのでしょう。
実は、食育という言葉を最初に用いた人は石塚左玄(いしづか さげん)で、明治時代に陸軍の医師・薬剤師として活躍しました。1896年「体育智育才育は即ち食育なり」という言葉を残しています。また明治の小説家である村井弦斎(むらい げんさい)も「食道楽」という著書で食育の大切さを説きました。
こんな昔の言葉を探し出してきて、2005年「食育基本法」が制定され「生きる上での基本であって、知育、徳育及び体育の基礎となるべきもの」と位置づけられました。ここまでの話でしたら、別に何の問題点(?)もないように思います。
ここからは「カルビー」と「マクドナルド」の関係者の方々には誠に申し訳ない話になってしまいます。前もってすみませんと書いておきます。食育の推進の前提にあるのは「栄養の偏り」「不規則な食事」「肥満や生活習慣病の増加」「過度の痩身志向」「日本の食が失われる危機」等、これではダメだというものがあります。ところがカルビーやマクドナルド等の企業は、この食育運動を推進しているのです。いわゆるスナック菓子やファストフードと、食育活動は相容れないものだと思いますが、いかがでしょうか。もっと言うと、人が食べるものを国が決める、方向付ける、なんて事があっても良いのでしょうか。
朝ご飯は食べた方が良いでしょう。夕食は一家団欒で、家族全員がそろうことが望ましいでしょう。でも分かっていても、できない家庭状況、経済状況にあるご家庭はたくさんあるはずです。大きなお世話という感じです。食育の今後の行き先は、どっち行く、こっち行くという感じです。
学校紹介・美術工芸部紹介
サンテレビ「4時!キャッチ」2020/7/15
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