校長室より

校長室より

フリーのコーラ

フリーのコーラ

 「木村先生は、親父ギャグというか、ダジャレが好きですね」とよく言われます。「はい、その通りです」と答えています。日本語は同音異義語が多く、また、脚韻や頭韻を踏むと、文章にリズムが出てくるので、私が書く文章や、人前でお話をする場面で、数多く利用しています。

 しかし日本語以外の言語でも、このような例はたくさんあります。今でも私が鮮明に覚えているのが、1985年のアメリカ映画「バックトゥザフューチャー」の中の台詞です。主人公のマーティ(マイケルJフォックス)がタイムマシンに乗って、30年前の世界にタイムスリップしたときの話です。喫茶店だったか、ドラッグストアだったかで、マーティが好きな「ペプシコーラ」を注文するときに「FreeのCola」を頼みます。マーティが頼んだのはもちろん「Sugar Free」のコーラ、砂糖が入っていないコーラのつもりです。しかし、30年前の世界には「Sugar Free」のコーラは存在していませんから、店のおじさんは「Free(値段がタダ)のCola」なんかうちの店にはないと、怒ってしまいます。Freeという単語には、○○がない、という意味と、値段がタダ、という2つの意味があるから生じた、親父ギャグ、ダジャレだということです。当時の映画の日本語字幕では、Freeという単語の上に、マーティの台詞では○○がない、店のおじさんの台詞では値段がタダ、という風になっていたと思います。

 このように、ダジャレは世界中で愛好されています。皆さんも生活の中に潤いを求めて、使用してみて下さい。ダジャレは、オシャレなワインのボジョレーや、コジャレたすじゃれ(すだれ)にも使われます。

 

ボナエ・リテラエ

ボナエ・リテラエ

 私も初めて聞く言葉でした。ラテン語のようですが、直訳すると「良い書物たち」ですが、もう少し背景を広くとると「優れた・洗練された・品格のある」「文書・手紙・文芸・文学・教養・学問」という意味になります。「よい本を読めば、よい人間になる」かというと、そうでもないのが現実ですが、そう信じられていた時代もあったようです。

 「ボナエ・リテラエ」という言葉をよく使ったのはエラスムス(1466~1536)です。ネーデルランド(現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルクにあたる)出身の人文主義者、神学者、哲学者で「痴愚神礼讃(ちぐしんらいさん 愚神礼讃ともいう)」で、カトリック聖職者の腐敗を批判しました。彼が言う「ボナエ・リテラエ」は、キケロ、プルタルコス等の古典的書物や、キリスト教的な徳を建て、信仰の奥義を探ろうとするものが含まれていました。

 また次に「ボナエ・リテラエ」の概念が登場するのは、17世紀のアメリカ、ニューイングランドです。ハーバード大学の初期カリキュラムは、中世以来の人文主義的な古典教育でできあがっていました。「リベラルアーツ」と「ボナエ・リテラエ」の2本立てです。古典的な人文主義教育の柱は、ギリシャ語やラテン語の学習で、それこそがプロテスタント聖職者の職業訓練にぴったりのものでした。多くのピューリタンがアメリカ渡航前に卒業したケンブリッジ大学、オックスフォード大学のカリキュラムと同じものです。

 現在の日本の大学教育はどうでしょうか。すぐに役に立ちそうな教育ばかりがなされているような気がします。すぐに役に立ちそうなものは、すぐに役に立たなくなるものですから、いかがなものかと思います。良い書物を読んで、きゃもつ列車で、にゅもつを運びましょう。

 

スラムダンク

スラムダンク

 劇場版アニメ「THE FIRST SLAM DUNK」が公開されています。バスケットボールに携わる人間にとって、スラムダンクは避けて通ることができません。井上雄彦(いのうえ たけひこ)さんによって1990年から少年ジャンプで連載が始まり、その後テレビアニメが放送されました。スラムダンクを見て、バスケットボール部に入った中高生の数は、どれくらいになるのか見当もつきません。それくらい一世を風靡しました。

 映画の内容はネタバレになるので、詳しくは書けません。ただし、スラムダンクをよく知っている人にも、今回初めて見る人にも対応した中身だと思いました。画面の迫力は素晴らしいものがありますし、バスケットボールに対する愛情が感じられる作品に仕上がっています。安西先生の名台詞も健在です。

 一番気になるのが「ファースト」の意味です。セカンドやサードができるのか、という疑問です。できなくはなさそうですが、実際に作るのは大変そうです。今回も特に昔からの熱烈なファンに取っては「物足りない」という感想もあるようです。今後のお楽しみということでしょうか。

 ダンクシュートを決めるためには、画家のムンクがミンクのコートを着て、インクでリンクを張ることが必要です。

 

ロシア語を学ぶ

ロシア語を学ぶ

 今や世界中を敵に回している感があるロシアですが、歴史的にはロシア文学やロシア民謡には偉大な作品が数多くあります。また普通のロシアの人たちは、ある意味犠牲者と言えるかもしれません。ロシアの吟遊詩人「ブラート・オクジャワ」の「祈り」という歌があります。

 神よ 人々に 持たざるものを 与えたまえ

 賢い者には 頭を 臆病者には 馬を

 幸せな者には お金を そして私のことも お忘れなく・・・

 この歌の解釈は多様で、例えば「賢い者には頭」というのは、賢さとは心で悟るものだから頭脳とは別物だということを、「幸せな者にはお金」が必要なのは、幸福か否かはお金の問題ではないことをそれぞれ暗示しているという説があります。また、そうではなく全体として一般常識的な固定観念に対する皮肉であるという説もあります。そしてまた、それらの解釈とはまた別の層にある要素として、この詩には言語への希求のようなものがあるという説もあります。賢さや幸せという、普段は自明のものと認識している言葉の意味を考え直すことにもなります。新しい語学を学ぶということは、新しい発見があるものです。

 この歌を紹介してくれたのは「奈倉有理(なくら ゆり)」さんですが、彼女は1982年生まれで、2002年にペテルブルグに留学し、2008年に日本人としては初めてロシア国立ゴーリキー文学大学を卒業し、多くのロシア文学の翻訳書を出版し、ロシアの動向について発言をしています。ちなみに「ゆり」という名前は日本では主として女性の名前でしょうが、ロシアでは「ユーリー」は男性の名前だそうです。彼女の著書である「夕暮れに夜明けの歌を」では、彼女がロシア語に魅せられて、語学を学ぶ中での学生や先生、近所に住むロシアの人たちとのやりとりやエピソードを記したエッセイです。一人の日本人と普通のロシア人たちは、生活して交流して当たり前のように友情を築き上げていきます。当たり前の日常が、早く戻ってくることを願わざるを得ません。当たり前だのクラッカー(若い人には分からない?)。

 

予想と期待

予想と期待

 何回目かのラジオネタです。本来は歌手の「GACKT」さんですが、格付け番組等で有名になったり、病気で療養したりしています。彼は人を前向きにするような言葉を多く発言しています。

 「予想を裏切る 期待には応える」

 彼がライブを行うときは、観客が予想しているようなステージや、楽曲の構成を裏切るようにしているそうです。しかし結果として観客には感動を与え、大満足で帰宅の途につくように、期待には応えることを心がけているそうです。

 この言葉は、もちろんショービジネスには欠かせない視点だと思いますが、他の分野にも当てはまることが多いと思います。「○○という会社が、新製品の××を開発した」「○○先生の授業は、斬新な切り口で、勉強になる」「○○課長は、課員の背中を押すような業務の取り上げ方をしてくれる」「○○という作家の小説は、次々と新しい世界を見せてくれる」これまでに社会現象にまでなった製品、例えば「ウォークマン」や「ファミリーコンピューター」「iPhone」等は、予想を裏切り、期待に応えたものだったと思います。

 私も「木村校長の始業式・終業式での話は、毎回予想を裏切るが、期待には応えてくれる。最後のギャグだけはすべりまくりだが」と言われるように心がけています。期待に応えるためには、機体に気体を詰めて、帰隊しなければなりません。

 

山紫水明

山紫水明

 山紫水明(さんしすいめい)という言葉は「日に映じて、山は紫に、澄んだ水は清くはっきりと見えること。山水の景色の清らかで美しいこと」という意味で、風光明媚(ふうこうめいび)な景色を表すものです。しかし普通、山は春から夏にかけては緑色だし、秋からは紅葉で黄色か赤色のはずです。山が紫色とはどういうことでしょう。

 四字熟語の漢字ですから、語源は中国の歴史書からのものと思いがちですが、実はこの言葉は日本の江戸時代後期に、平安時代から江戸時代までの歴史書「日本外史」を書いたことで有名な「頼山陽(らい さんよう 1781~1832)」が作った言葉です。頼山陽は京都鴨川の西岸に「水西荘(すいせいそう)」と名付けた居を構え、敷地内の書斎に「山紫水明処」という号をつけました。夕方に水西荘から東側を見ると、日が傾いて東山の山肌はすでに紫色にかげっているが、鴨川の川面は夕日の照り返しでまだ明るい。昼から夜に移り変わる夕暮れの短い間にだけ見られる、はかなくも美しい特別な景色を山紫水明と名付けたのです。後の人々は、時間を限定せずにただ美しい山水の景色を山紫水明と呼ぶようになっていった訳です。

 このように江戸時代には、まだまだ漢文の文化が主流でした。揖斐高(いび たかし)さんが書いた岩波新書の「江戸漢詩の情景」には、山紫水明以外にも多くの江戸時代の日本における漢詩が紹介されています。当時の学問といえば「儒学」とりわけ「朱子学」ですから、漢字ばかりです。漢字を知らないと、いい感じの幹事にはなれません。

 

カタール

カタール

 サッカーのワールドカップが開かれる、中東の国カタールです。アラビア半島に突き出したカタール半島で、面積は日本の秋田県と同じくらいの1427km2で、人口は250万人くらいの小さな国家です。国土の全域が砂漠気候であり、年間降水量が100ミリといいますから、日本で少し強い雨が1日降るときの降水量が、1年分ということになります。もちろん豊富な石油と天然ガスの産地ですから、経済的には豊かで、カタールでも大人気のスポーツであるサッカーのワールドカップを招致することができました。

 世界中で人気のあるヨーロッパのリーグ戦が毎年秋から春にかけて行われるため、これまでのワールドカップは、それを避けて夏の時期に実施されてきました。ですから最初はカタールでも夏に行うことを考えましたが、カタールの夏は気温が50℃になるくらいのとんでもない暑さなので、スタジアム全体を冷却する案が検討されたりもしました。結局夏の開催は諦めて、そのかわりヨーロッパリーグ戦を一時中断する(! 非常に大きな金額のお金が動いた?)ということで、開催に至りました。

 カタールは、本来のカタール人は人口の1割強しかおらず、残りの9割弱は南アジアや東南アジアからの外国人労働者で、特に男性労働者が大量に流入しているため、住民の4分の3が男性です。今回、狭い国家にスタジアムを作るために、かなり無理をして工事を行ったようで、外国人労働者の人権を無視した可能性が高いようです。そのためワールドカップの実施自体、どうなんだ、という意見もあり、ヨーロッパの中には、通常であればパブリックビューイングを実施するはずが、抗議の意味を込めて実施しない国もあるようです。でもワールドカップ自体を中止するということにはなりません。

 日本代表は、初戦のドイツ戦を逆転勝利という素晴らしいスタートを切りましたが、大きなスポーツの大会がお金まみれという現状はいかがなものか、という感じもします。ワールドカップはコップの中でアップして、シップを貼って、トップを目指しましょう。

 

これからのリーダー

これからのリーダー

 厚生労働省で事務次官を務めた村木厚子さん(木村ではない)は、これからの時代のリーダーに求められるのは「メンバーそれぞれの強みを生かすチームづくりだ」と言っています。そして「どんな上司が望まれますか」という問いには「情報を上げたいと思われる上司になることが大切だ」と話しています。

 「重要な情報が耳に入らずに『自分は聞いていない』という上司がいます。私もそう言いたいときはありますが、自分が部下の立場だったら、本当に大事な人には相談しています。もっとはっきりいうと、役に立つ上司のところには情報を持っていきます。大事なことを聞かされないのはリーダーとして格好悪いことなのかもしれません」

 確かに「私は聞いていない」と言って怒る社長や校長たちがいると聞いたことがあります。それは部下に対して「ちゃんと報告しない部下が悪い」と怒っているのでしょうが、実は聞かされていない自分の責任である、と考えることもできるわけです。怒る前に、自分のやり方を反省した方がよいのかもしれません。

 村木厚子さんは、厚労省の課長時代に事件に巻き込まれ、逮捕されましたが、実は冤罪(えんざい 無実なのに罪をかぶせられること)で裁判では無罪判決となり、厚労省に復帰して官僚としては最高位である事務次官になった人です。普通ではできないような経験をしてきた人だからこその説得力があります。生徒の皆さんも、情報を上げたいと思われる上司を目指しましょう。上司がよければ、調子に乗って、よい表紙が書けそうです。

 

二兎を追う

二兎を追う

 「二兎を追うものは一兎も得ず」ということわざは、もともと英語で「If you run after two hares you will catch neither」ということわざを日本語に訳したもののようです。「同時に2つのことをしようとする者はどちらの成功も得られない。1つの事柄に集中するのがよろしい」という意味です。しかしこのことわざに対して「二兎を追うものだけが二兎を得る」という言葉もあります。生徒の皆さんはどう考えますか。

 「文武両道」という言葉があります。中国の歴史書である「史記」にも記述があるようですが、日本では鎌倉時代以降の武士の世界で、文事と武事の両方に秀でることとして使われた言葉です。現在の高等学校でも、勉強と部活動の両立を目指すこととして、多くの学校の目標として用いられています。確かに、高校生には勉強はもちろんですが、部活動に取り組むことも大切で「二兎を追う」ことにつながります。

 総合学科の高等学校では、以前から「探究活動」に重きを置いてきました。探究は自分の興味関心のある事柄について、色々な方法を駆使しながら深堀していくもので、現在では普通科の高等学校にも広く取り入れられています。通常の学習活動と探究活動を両立させていくことも「二兎を追う」ことになると思います。

 ビジネスの世界では「二兎を追っていると三兎めが出てくる」という話もあるようです。多角経営を奨励するときには、適切なのかもしれません。皆さんも二兎を追うと、古都を問う事ができるかもしれません。

 

自信を持つ

自信を持つ

 生徒の皆さんは自信がありますか。どうすれば自信が持てるようになるのでしょうか。クラブの大きな大会に臨むとき、大学の入学試験を受けるとき、就職試験の面接を受けるとき、どれも緊張しますよね。これまでに経験のない状況になったとき、緊張したり、自信を持てなくなったりします。どうすればいいのでしょうか。

 まず、準備をしっかり行うことが1番大切です。大会前に練習をしっかりやって、試合に臨む。その大学の過去の入試問題を10年分くらいやり遂げてから、入試を受ける。先生方を利用し倒して、面接の練習を繰り返し行った後で面接試験を受ける。どこまで準備すれば100%になるのかは分かりませんが、しっかりした準備は必ず自信につながります。

 次は、自分を客観視することです。自分を自分以外の人から見たときに、どのように見えているのだろうと、想像してみることをおすすめします。緊張して、手足や唇が震えているとしたら「他人から見ても、緊張しているように見えるだろうな。でも、自分でもそのように思えているということは、私は落ち着いている」「大丈夫。これまでの人生の中で、1番緊張した○○のときよりも、私は落ち着いている」少し難しく感じるかもしれませんが、こういう習慣を身につけてしまえば、案外使えるようになるものです。

 最後は楽観的になることです。失敗しても、ミスをしても、命がなくなる訳ではありません。自分ではうまくいかなかったと思ったとしても、他人からは評価される場合もあります。頑張って、ダメならまた次に頑張れば大丈夫だ、と信じて対応することです。

 この3つの考え方は、私が40年以上昔の、大学受験のときに思ったことです。今でも本当に大変だった思いがありますが、やり遂げたことが私の自信につながっています。皆さんも、自信を持って、地震に負けずに、自身を発揮して下さい。