大塩平八郎の乱
大塩平八郎の乱
藪田貫(やぶた ゆたか)さんが書いた、中公新書「大塩平八郎の乱」です。藪田さんは日本近世史を専門とする歴史学者で、現在兵庫県立歴史博物館の館長をされており、第二代の大塩事件研究会会長を務めています。
大塩平八郎の乱は、日本史の教科書には必ず登場する事件ですが、私もこの本を読むまでは詳しい内容を知りませんでした。大塩平八郎の乱の研究としてまとめられたものとしては、幸田成友(こうだ しげとも)の「大塩平八郎」(1910)が最初です。ちなみに幸田成友は、文豪幸田露伴の実弟です。続いて石崎東国(いしざき とうごく)の「大塩平八郎伝」(1920)、戦後は相蘇一弘(あいそ かずひろ)の「大塩平八郎書簡の研究」(2003)が全三巻で発行されました。しかしこれらの研究では、書簡の分析等から大塩平八郎の人となりの研究が中心で、乱自体の分析が少ないものであった、と藪田さんは書いています。
大塩は大坂町奉行所の元与力(町奉行を補佐する中間管理職で、行政を中心に、警察官と裁判官の役割を兼ねた)でした。大塩は文としては陽明学を研究し、私塾洗心洞(せんしんどう)を立ち上げ、弟子を数多く育てました。また武としては、槍の達人で、鉄砲や大砲などの砲術にも堪能でした。まさに文武両道で、徳川幕府の実績のある役人として活躍した人物であっただけに、大塩の乱は幕府を震撼させました。
その大塩が天保8年(1837)2月19日に反乱を起こします。天保の大飢饉があり、餓死者が続出する中、奉行所に救済を嘆願したが容れられず、私塾の門弟たちと「救民」を掲げて決起しますが、わずか1日で鎮圧されます。大塩の乱の評価は二分しています。大塩贔屓(びいき)の意見は、決起当日に撒かれた「檄文」が「飢饉のため、餓死者が出ているような社会であるのに、幕府や奉行所は庶民を救おうとしない。また豪商たちと結託して、贅沢の限りを尽くしている。このような状況を救うために、我々は決起する」という内容であり、実際に所蔵していた書籍等を売却して窮民に施しを行ったので、大塩は素晴らしいというものです。反対に大塩嫌いの意見は、飢饉の最中に市街戦を決行し、罹災者を増加させてしまったのはけしからんというものです。
そして反乱壊滅後、大塩は約40日あまり大坂市内に潜伏していました。他の同志たちは捕まったり、自害していたのですが、なぜ大塩だけは生き延びていたのか。その理由は乱の前日に幕府、特に老中あてに「国家のことについて掛け合う」という内容の密書を送り、その返答を待っていたようなのです。ここでも文武両道の大塩像が見られるようです。ともあれ、現在でも熱狂的な大塩ファンの人々がいるのは間違いないですし、今後また新たな書簡等が発見され、研究が進む可能性もあります。大塩の研究は親潮や黒潮に乗って、満ち潮のときに進むかもしれません。
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サンテレビ「4時!キャッチ」2020/7/15
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