校長室より

抵抗の新聞人 桐生悠々

抵抗の新聞人 桐生悠々

 桐生悠々(きりゅう ゆうゆう)、本名桐生政次という人がいました。1873年に石川県金沢で生まれ、第四高等学校から帝国大学法学部に進学したと言いますから、当時の超エリートです。しかし卒業後は、短期間で職業を転々とします。そんな中、栃木県の下野(しもつけ)新聞を皮切りに、大阪毎日新聞、大阪朝日新聞、東京朝日新聞で記者を勤め、1910年長野県の信濃毎日新聞の主筆(しゅひつ)に就任します。主筆という言葉は現在では馴染みがありませんが、新聞の社説を書いたり、コラムを書いたり、記事をチェックするという仕事をする人です。反権力、反軍的な言論を繰り広げ、表現の自由のためにペンの力で立ち向かいます。

 1914年に信濃毎日新聞から新愛知新聞に移りますが、1928年に再び信濃毎日新聞に戻ります。1933年、彼が書いた社説の中で最も有名になった「関東防空大演習を嗤う(わらう)」が発表されます。これは東京を中心として関東一帯で行われた防空演習を批判したもので、文章の中身は至極当然な内容で、12年後に現実となる東京大空襲を予言するものでした。しかし当時の陸軍は「嗤う(さげすみ、笑う)」という言葉に反応したようで、彼は信濃毎日新聞を追われてしまいます。

 以後は「他山の石」という個人雑誌を出版していきますが、変わらぬ政府や軍部に対する批判を書き続け、発禁処分を何回も受けることになります。1941年、太平洋戦争開戦の3ヶ月前に、喉頭ガンのため、68歳の生涯を閉じます。

 1980年、長野県出身のジャーナリストである、井出孫六(いで まごろく)による岩波新書「抵抗の新聞人 桐生悠々」が出版されました。私はこの本を読んだ覚えがあるのですが、2021年に岩波現代文庫として再版されました。井出孫六は2020年に亡くなられたのですが、今回の再版では、同じく長野県出身のフリージャーナリストである青木理(あおき おさむ)が解説を書いています。青木理は、現在も週刊誌、新聞、テレビなどで、活躍しています。桐生悠々、井出孫六、青木理と受け継がれてきた反権力のジャーナリスト魂を感じることができました。魂のこもった文章を読むことは楽しいですね。