校長室より

2022年7月の記事一覧

サイエンス コミュニケーション

サイエンス コミュニケーション 

 サイエンス コミュニケーション。あまり聞いたことがない言葉です。「科学に関する意思疎通」とも言うようですが、ますます良く分かりません。

 桝 太一(ます たいち)さんは、日本テレビのアナウンサーで、いろいろな報道番組の司会等をやっていましたが、2022年3月に退職して(これまで通り、いくつかのテレビ番組には出演している)同志社大学ハリス理化学研究所の専任研究所員に転出しました。その動機は「サイエンス コミュニケーションについてもっと深く考えて実践したいから」というものでした。

 桝さんは、東京大学農学部でアサリの研究を行い、修士課程を終了したバリバリの理系人間です。アナウンサーとして就職して、科学番組にも携わりましたが、テレビ局の持つ「サイエンスリテラシー」の欠如に違和感を持ったようです。

 京都大学iPS細胞研究所名誉所長の山中伸弥さんも、感染症については専門外としながらも、今回のコロナ渦について、多くの発言をしてきました。その上で、次のように述べています。「科学を進歩させることも大切ですが、難しく感じる科学を一般の方にわかりやすく、かつできるだけ正確に伝える科学コミュニケーションも非常に重要です。それも研究者にとって大事な仕事の一つだと私は考えています」

 「社会の役に立つ研究や学問をするべきだ」という意見もあります。しかし例えばプロのスポーツ競技について「社会の役に立つプロのスポーツ競技をすべきだ」という意見は聞いたことがありません。サッカーでも野球でも好きな人は純粋に好きだから、面白い・感動する・成長できるから競技をしたり、応援をしたりするわけで、そういった意味で、科学も文化の一つとして広まって欲しいと思います。

 手前味噌ですが、香寺高等学校美術工芸部の皆さんと、私による「理科の散歩道」も、科学の普及に少しでも貢献できたらなと思っています。科学や医学は、苦学しながら、長く、磨くことが望まれます。

 

新しい資本主義

新しい資本主義 

 どこかの国の総理大臣が「新しい資本主義」などと言っています。資本主義をどのようにとらえるかは難しいと思いますが、「大量生産、大量消費」「貧富の格差の拡大」「環境に優しくない」等、問題点はたくさんあるように思います。だからといって、資本主義に代わる夢のようなシステムがあるかと言われると、これもまた難しいのが現実です。

 ヤニス・バルファキスという人が書いた、原題「ANOTHER NOW(日本語では「もう一つの現在」くらいが適切)」という本の日本語訳が「クソッたれ資本主義が倒れたあとの、もう一つの世界」というかなりぶっ飛んだタイトルで出版されました。著者のヤニス・バルファキスという人は、ギリシャ出身で経済学の学者ですが、2015年ギリシャが全国的な経済危機に陥ったときに、チプラス政権の財務大臣に就任し、財政緊縮策(国の予算を小さくする策で、良い面もなくはないが、庶民は困ることが多い)を迫るEUに対して大幅な債務減免(国の借金を、なかったことにしてくれという無茶な話)を主張し、注目を集めた人物です。

 この本の内容を紹介するのは至難の業なのですが、やってみましょう。一言で言えばSFです。現在の資本主義の世界と、それを劇的に改善してできた架空の世界を比較し、個性的な登場人物5人に自由に語らせたという形式です。1980年代、イギリスのサッチャー首相が「There is No Alternative」「(資本主義、市場主義のほかに)選択肢はない」の頭文字を取って「TINA(ティナ)」と言ったのに反対して「That Astonishingly There is An Alternative」「驚くことに選択肢は存在する」の頭文字を取って「TATIANA(タティアナ)」を主張しました。一つの想像上の理想的な社会を考案するのですが、その実現のためには名もなき庶民1人1人の努力と貢献と行動が欠かせないと書かれています。この架空の世界では、商業銀行、株式市場、上司と部下の関係、その他「当然のように存在すると思われるもの」が全く存在しません。まさにSFなのですが、私は絵空事だと笑い飛ばす気にはなれませんでした。

 資本主義の代わりはないことはない。日本にも手本となる見本を作り、絵本になるような基本を大切にしましょう。

 

「正常」が狭められていく 

「正常」が狭められていく 

 私たちは体調が悪いとき、病院へ行って検査を受けますよね。検査の結果「どこも悪いところはないです」と言われることはよくあることです。でも何か病名をつけてもらいたかったり、薬を出して欲しかったりします。これは「正常」な事なのでしょうか。

 人類学者の磯野真穂さんが新聞に書いていました。彼女は大学院生の時に摂食障害の研究を始めました。当時、摂食障害は「拒食症」と「過食症」の大きく二つに分けられていました。ところが「摂食障害の種類がどんどん増えていく」事に気づき、大学院の教授にその理由を尋ねてみました。答えは次のような、びっくりするものでした。

 「新しい疾患を確立すると、それが学者の業績となるから」

 学者の業績のために、新しい疾患が生み出され、その病名をつけられた「患者」からは「自分の状態に病名が与えられ、ようやく肩の荷が下りた」と歓迎される。これは不幸になる人を誰もつくらない、八方良しの状態なのでしょうか。しかし磯野さんは「これはまずい」と考えました。

 「あるべき状態」から外れている人たちを発見し、その人たちに病名を与え、治療の枠組みを確立することは、「正常」の範囲を狭められていく作業に他ならない。そのよい例が、注意欠陥多動性障害(ADHD)である。アメリカの子どもたちの15%がADHDと診断され、その大半が投薬を受けている。この背後には、製薬会社の多額の投資、子どもを薬物で鎮め、願わくば学力向上を図りたい大人の思惑、不明瞭な診断基準があるのではないか。「落ち着きがないのが子ども、という考えはもう古い」としてしまって本当に良いのか。

 人間をどんどん分類していって「障害」が増え続けていくのは、本当に正しいことなのでしょうか。あらゆる事に対して「正常」な人は、本当にいるのでしょうか。色々なことを考えさせられました。正常は、水上で愛情を持って、形状に注意して、退場しないように、平常で最上の結果を求めましょう。