校長室より

2022年8月の記事一覧

県庁インターンシップ

県庁インターンシップ

 毎年夏休みの期間に、2005年から兵庫県内の高校生を対象にして、公務員の仕事を体験する「県庁インターンシップ」が実施されています。高校生に目標を持って進路を選択できるようになってもらおうという趣旨で、2022年度は県内39の高校から70人が参加しました。8月22日の開講式では藤原俊平教育長が配置通知書を手渡し、生徒の代表は「実際に働く体験を通して兵庫県を担う一員としての心構えを学びたい」と述べたそうです。

 今年度本校からも2年次のA君が県庁インターンシップを希望し、採用されました。もともとA君は進路先として公務員を希望していることもあり、やる気満々で臨んだようです。配置先は県庁の教育委員会事務局のB課になりました。教育委員会事務局の仕事は多岐に渡りますが、個人情報等も扱っているため、高校生にやってもらえる仕事には限度があります。今回、A君は差し支えのない範囲でのデータの確認等の仕事を与えられたようで、期間中毎日黙々と取り組んでくれたようです。

 22日から26日までのインターンシップが終わった後、B課で働く私の知り合いのCさんからメールをもらいました。「香寺高校のA君の仕事ぶりが素晴らしかった。できたらB課で勤めて欲しいくらいです」というものでした。更に、私の知り合いのB課のD課長からもメールが届きました。「決裁板に挟んだ伝票状の資料と認定証などを一つ一つ確認している姿は、まるでずっと以前から、当課に座っている課員のように見えました」素晴らしいお褒めの言葉をいただきました。

 A君のように、周りの大人たちを感心させるような体験ができたことは大変素晴らしいことですし、今後の高校生活にも生かされるものと思います。またこの夏休みの期間中、香寺高校の生徒たちは色々な場所で多くの経験をしてくれたと思います。高校での補習への参加、クラブ活動での大会や発表会への参加、オープンハイスクールでの中学生への案内等、普段の授業ではあまり経験できないような体験ができた人も多かったのではないでしょうか。9月からも「チーム香寺」で頑張っていきましょう。

 

島守の塔

島守の塔

 島田叡(しまだ あきら)さんを描いた映画「島守の塔」が公開されています。島田さんは1901年神戸市に生まれ、旧制神戸二中(現県立兵庫高等学校)から第三高等学校、東京大学に進み、旧内務省の官僚として活躍し、1945年1月、沖縄最後の官選知事として戦争末期の沖縄に赴任し、6月に行方不明となりました。知事としての在職期間はわずかでしたが、台湾から米を確保するなど、沖縄の人々のために尽力されました。

 島田さんは学生時代から野球に打ち込み、優秀な選手だったようです。沖縄県では奥武山公園内の多目的グラウンドが「兵庫・沖縄友愛グラウンド」と命名されています。また、秋に開催される沖縄県高等学校野球新人中央大会の優勝校には「島田杯」が授与されることになっています。映画の中で、俳優萩原聖人さんが演じる島田叡は、俳人である正岡子規(彼も野球好きで有名だった)の「筆まかせ」の一節を披露します。

「実際の戦争は危険多くして損失夥(おびただ)し ベース、ボール程愉快にてみちたる戦争は他になかるべし」

 野球も含め、スポーツや文化活動等は、平和な世の中でないとやっていくことができません。この映画では島田知事に仕える「比嘉凜(ひが りん)」役を、戦争当時は吉岡里帆が演じていますが、戦争を生き延びた凜は、映画の最後で島守の塔に手を合わせに来ますが、その役を香川京子が演じています。吉岡里帆と香川京子が同一人物であるという証明も見事な映像でした。

 ベースボールを野球と訳したのは島田さんではないようですが、普通なら「塁球」ですよね。さて、問題です。次の日本語は何の球技のことでしょうか。

1 排球(はいきゅう) 2 籠球(ろうきゅう) 3 撞球(どうきゅう) 4 羽球(はねきゅう) 5 門球(もんきゅう) 6 蹴球(しゅうきゅう) 7 送球(そうきゅう) 8 闘球(とうきゅう) 

では答えです。1 バレーボール 2 バスケットボール 3 ビリヤード 4 バドミントン 5 ゲートボール 6 サッカー 7 ハンドボール 8 ラグビー

昔の人は偉かった。

 

 

鴎外森林太郎(おうがい もり りんたろう)

鴎外森林太郎(おうがい もり りんたろう)

 2022年は森鴎外の生誕160年、没後100年の年に当たります。明治時代の文豪としては、夏目漱石と森鴎外の2人が有名ですが、ご承知の通り、森鴎外は陸軍の軍医という職業も持っていて、その活動量には素晴らしいものがあります。多彩な小説はもちろん、翻訳や論争や雑誌活動に精魂傾け、学問と芸術の世界を自由に歩き回りました。1971年に出版された岩波書店「鴎外全集」は、全38巻もあります。

 森林太郎は1862年、石見国(いわみのくに)今の島根県津和野に生まれ、1872年一家で東京に出ます。東京医学校(後の東京大学医学部)に学び、陸軍の軍医となります。1884年ドイツ留学の命を受け、4年間ドイツに滞在します。そのときの体験をもとに、ドイツ三部作が執筆されますが、そのうちの一つが、高等学校の国語の教科書に取り上げられている「舞姫」です。鴎外がモデルと思われる主人公の「太田豊太郎」が舞姫である「エリス」と恋に落ちますが、豊太郎は自分の将来を考えてしまいエリスを残して帰国してしまうというストーリーです。事実とは異なった部分も大きいようです。

 初期の鴎外は、海外文学の翻訳を多数出版しました。また俳句や短歌も数多く作り、歴史小説も書き始め、「山椒大夫」や「高瀬舟」などの作品を出します。史伝としての「渋江抽斎」も有名です。

 1922年、体調を崩した鴎外は遺書を口述します。「余は石見人森林太郎として死せんと欲す」(原文では平仮名部分はカタカナになっている)墓石にも森林太郎とだけ彫るように伝えます。江戸、明治、大正を駆け抜けた60年の人生でした。最後に1911年に「文芸断片」として次のように書いています。

「学問の自由研究と芸術の自由発展とを妨げる国は栄える筈がない」

 現在のどこかの国の政治家に聞かせてやりたい文章を、今から100年以上前に書いていました。鴎外の人生は、法外で郊外で風害で当該なものでした。

 

亜鉛の少年たち

亜鉛の少年たち

 スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチさんが書いた「亜鉛の少年たち」です。スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチさんは1948年、ウクライナに生まれた作家、ジャーナリストです。「戦争は女の顔をしていない」「ボタン穴から見た戦争」「アフガン帰還兵の証言」「チェルノブイリの祈り」等の作品で知られ、2015年にジャーナリストとして初めてノーベル文学賞を受賞しました。

 今回の作品「亜鉛の少年たち」ですが、1979年から1989年の10年間も続いたアフガニスタン戦争で、ロシア人の若者たちが「国際友好の義務を果たす」という政府の方針で送り出され、「亜鉛の棺」に納められて帰国してきた様子を聞き取り、書き留めた戦争の記録であり、91年に出版され、95年に日本語版が出版されました。ところが93年ベラルーシで、「亜鉛の少年たち」に登場していた証言者たちが、アレクシエーヴィチさんを相手どり、次々に裁判を起こします。この裁判は支離滅裂なもので、「黒幕」としてベラルーシ政府関係者による「政権に不都合なことをいう輩は裁判にかけるなり圧力をかけるなりして黙らせろ」という力がはたらいたものと思われます。アレクシエーヴィチさんはこの裁判の記録等も含めた新しい「亜鉛の少年たち」を2016年に出版し、2022年日本語訳の刊行となりました。

 一人一人の若者である兵士や、その母親に対する丁寧な聞き取りを続け、戦争の悲惨さを表現する。そして、敵対する勢力からの裁判闘争にも、記録をもって対抗する。すごいことをやってのける人物です。そして今、アレクシエーヴィチさんが生まれたウクライナが戦争状態になっています。早く平和な毎日が取り戻せるようにしたいものです。戦争で死んでしまって、亜鉛の棺に入れられると、もう二度と会えんのですから。

 

中国の故事と名言500選

中国の故事と名言500選

 私の本棚から一冊を紹介します。「中国の故事と名言500選」平凡社 奥付を見ると1980年7月1日初版第5刷発行とありますから、もう40年以上前のものです。当時大学生だった私には、上下二巻組で2800円という金額はかなり高い買い物だったと思われますが、すっかり忘れていました。

 この本で取り上げられている約500の語句は、古来わが国で使い慣わされている語句の中でその典拠を中国の古典に持つもの、になります。昔の書籍はこんな風に小さい活字で700ページもありますから、全体を読み通すことは大変です。一つだけ例を挙げます。

 折檻(せっかん)という言葉は現在では「厳しく意見を加える」「責めさいなむ」という意味でよく使われます。子どもを虐待するときにも、折檻という言葉が使われたりします。しかし、もともとは「強く諫(いさ)める」という意味です。出典は「漢書」という前漢の歴史を録した正史の中の「朱雲伝」。朱雲(しゅうん)という人の話です。漢の成帝(せいてい)の時代に、当時丞相(じょうそう 今の総理大臣にあたる)だった張禹(ちょうう)という人物が勢力を持っていました。しかし勇気と腕力があり、人柄も学問にも優れた朱雲は、張禹は卑しい人物で、斬ってしまおうと考え、そのことを帝に進言しました。帝は怒って、朱雲を捕まえようとしますが、朱雲は宮殿の檻(手すり)にしがみついて動こうとしません。朱雲と帝の家来は「檻が折れて」地上に落ちました。それでも帝を戒めようと朱雲は叫び続けたため、成帝も機嫌を直して、朱雲を罰することを思いとどまりました。その後、折れた檻(手すり)を修繕することになりましたが、帝は「取り替えなくともよい。そのままつなぎ合わせておいて、直言の士を顕彰することにしよう」と言ったと伝わっています。

 折檻は、この話の「檻が折れた」ことから出た言葉で、もともとは手すりが折れるくらいに「強く諫める」という意味です。このように、もともとの意味から転じて違う意味になっている言葉はたくさんあります。言葉は、波止場で蹴とばして出来上がっていきます。