校長室より

【校長室より】1.17校長講話

阪神・淡路大震災発生から25年



 平成7(1995)年1月17日5時46分に淡路島北部を震源としたマグニチュード7.3 、震度7の大地震、阪神・淡路大震災の発生から25年を迎えました。
死者6,434名、重傷者10,683名、全壊家屋約10万5,000棟、半壊家屋約14万4,000棟、交通関係も、港湾での埠頭の沈下等、鉄道ではJR西日本等合計13社において不通、道路では地震発生直後、高速自動車道等の27路線36区間が通行止めになるなど、未曾有の被害が発生したのです。

 本校においては、震災直後から避難住民を受入れることとなりました。その後の雨のため避難者は増加し、1月20日には、校内には 2,500人を超す避難者を受入れました。
1月30日、31日の両日に校外2カ所で生徒が集合し安否確認が行われました。この時点での本校の避難者数 は2,000人でした。
  神戸電鉄が一部復旧したことから。2月8日から1年生は北区の神戸甲北高校で、2年生は鈴蘭台高校(現在の神戸鈴蘭台高校)で、教室を間借りして授業を再開することとなりました。

 その当時の2年生男子生徒、松岡亜希彦さんの作文の一部を紹介します。

『学ぶという事』
 学校という勉強するには恵まれ過ぎた環境が当たり前のようにあって、僕は色々なことを知る喜びを最近まで知らずにいたけれど、今はとてもおもしろいことだということに気付いた。
今回の震災で気付いたことは、えらそうに自分は勉強していることになっているが、実は自分の身の回りのことを何ひとつ、1回の食事すら自分で世話できない人間なのだということだ。親をはじめ、社会全体が勉強できる環境をすべて整えてくれていて、それらすべてを土台にして勉強させてもらっていた。生きることが何ひとつ自分でできないことに気付いた。自分一人でも生きてゆけるようになるためにも、今は鈴高というあまりある環境で勉強させてもらっている。

 生徒が他校へ通学する分校方式による学校再開は、授業の時間割りや部活動の活動場所など、当然制約を受けることは多かったのですが、生徒は頑張りました、職員も必死で務めました、なんとか工夫して乗り切り、震災直後の1か月を終えることができたのです。

 3月1日には鈴蘭台高校で第47回卒業証書授与式が挙行されました。在校生を代表して元生徒会長の前田修司さんが「破壊された神戸の復興、混迷する世界情勢の打開を担うのは私たちなのだ。」と力強く答辞で語られました。

 3月時点で本校には1000名を超える人が避難されており、本校における学校再開が断念され、当時、北区の西鈴蘭台にあった鈴蘭台西高校のグラウンドに仮設校舎が建設されました。
4月10日、鈴蘭台西高校の仮設校舎で第一学期がスタートしました。入学式だけはその日の午後、本校の講堂で挙行されました。
4月26日、3年生が九州方面への修学旅行を実施。そして、6月5日から1学年分の教室確保のメドがついたため、3年生が本校に復帰。その時の避難者は約600人を数えました。
 そのような中で8月25日には吹奏楽部が全国大会への出場を決めるなど全校生徒が一丸となって部活動でも大いに気を吐いたのです。
1,2年生の本校復帰に向けた準備が急ピッチで行われましたが、その時点の避難者160名で9月1日からの本校復帰はならず、9月26日1,2年生が本校に復帰し、全校生1117名が揃って復帰式を実施しました。この時点では避難者52名、翌年、2月14日に避難者がゼロとなるまで、避難者とともに学校生活を送ったのです。
 今話した概要は、校舎1階事務室前の柱の銘板に記されています。そこには「兵庫県立兵庫高等学校は、神戸市内で最大の避難所となり、被災者支援と教育活動の両立に困難を極めた。しかしながら、生徒も、教職員も粘り強く耐え、被災された人々とともに、394日間を戦い抜いた。」と刻まれています。

 25年の節目を機に改めて原点に立ち返り、震災の経験や教訓を忘れず、伝え、これを活かし、しっかりと備える必要がある。1 年生(74 回生)は、自力で帰宅することも想定しながら、学校 から HAT 神戸まで復興した神戸の町並みを歩く「1.17 ひょうごメモリアルウォーク 2020」 に、吹奏楽部は、駒ヶ林中学で行われる阪神・淡路大震災長田復興コンサート「これから も震災を語りつごう!!元気アップ長田 2020」に参加します。
東日本大震災をはじめ多くの豪雨災害の発生など。いつどこで大災害の発生や、何が起こるか分からない時代です。全校をあげて阪神淡路大震災 を忘れず、その経験と教訓をいかし、伝え、次の災害へ備える心構えをつくっていきましょう

 終わりに、平成8(1996)年2月28日の第48回卒業証書授与式で、生徒代表の石井宏幸さんが答辞で語られた内容の一部を紹介して終わります。

 本校が大規模な避難所となったため、授業は鈴蘭台高校での間借り、 鈴蘭台西高校での仮校舎暮らし、さらに本校で、被災者の方と共同生活をしながら続けられました。戦火の時代を除けば、まさに第二神戸中学校開学以来の危機状況でした。
 それでも、普通の生活が思うに任せない苦境の中でも、我々は耐えてきました。いや、静かに耐えるだけではなく、自己と学校の未来を切り開こうと 懸命でした。震災直後から連日にわたるボランティア活動への参加。学校が再開されると、グラウンドのない劣悪な条件下で県総合体育大会への出場、そして、短時間で作り上げた思い出深い九州修学旅行への取組み。
 試練にあったとき、人はその人間が試されますが、厳しい環境で、我々が不可能だと思えることを先生方とともに次々と克服してきました。
そうした歩みは、校訓である自らを治める「自重自治の精神」が我々の中に生き続けている証明です。そして私は、その兵庫高等学校生の一員であったことを誇らしく思います。もちろん、復興しなければならないのは兵庫高校だけではなく、神戸の街であり、 被災地のすべての街であり、被災者の心です。幸い「再建の意気高く」働ける優位な人材は48回生に数多くおり、神戸復活の気概で燃えています。
しかし、我々には被災からの復興に力を尽くすだけでは足りません。その上に、世界と未来を考える巨視的な目も持ち合わせて対処していく必要があります。
異なる集団、異なる社会、異なる文化に属する人々同士が相手を自分たちと区別せずに、お互いを認め合う世界、真のヒューマニズムに満ちた世界を作り上げるために、力を尽くさなければならないのです。我々は微力ですが決して諦めません。この仕事をやり遂げることは、新しい世紀を生きる若者の使命だからです。


 以上、阪神・淡路大震災から25年にあたり、講話とします。

令和2(2020)年1月17日

                        兵庫県立兵庫高等学校長
                            升 川 清 則