校長室より

幸福とは

幸福とは

 人は誰しも「幸福」になりたいと思うものです。しかし、現実にはなかなかそうはいきません。少子高齢化に歯止めはかかりませんし、気候変動問題によって、将来の経済発展に期待は持てません。地域間で、世代間で格差は広がり続けています。政治に対する不信感もあり、ロシアとウクライナの戦争の行方も読めません。「人生は本質的に苦しみだ」と考える人がいても不思議ではありません。苦しみに満ちた人生を、いかに生きるべきかを考えた哲学者がドイツのショーペンハウアー(1788~1860)です。

 彼は、生きる苦しみと向き合い、苦しみの源泉に他ならない欲望を否定し、エゴを超えていこうとしました。厳しい否定による悟りの境地である「意思の否定」を終着点とする「求道の哲学」を唱えました。なるほど、人間には欲望があるために、それが叶えられないとなると幸せにはなれません。最初から欲望を否定すれば、悲しみもなくなるというわけです。しかし、人間は本当に欲望をなくすることができるのでしょうか。ショーペンハウアーは晩年になり、その回答を示しました。

 「人生をできるだけ快適で幸福なものにする」ためには「思慮分別のある人は、快楽ではなく、苦痛なきを目指す」ことが必要です。そして幸福の礎となる「3つの財宝」を規定します。第一に「その人は何者であるか」人柄や個性、人間性などの内面的性質の事で、健康や気質、知性等とそれらを磨いていくことも含まれます。第二に「その人は何を持っているか」金銭や土地といった財産、その人が外面的に所有するものです。第三に「いかなるイメージ、表象・印象を与えるか」他者からの評価であり、名誉や地位、名声等です。

 私たちはたいてい、第二、第三のものを追い求めてしまいます。これらは「~がほしい」「~されたい」という欲望の対象で、どれほど多くを手に入れても、決して満足できないものです。もちろん、この第二、第三の財宝が全く価値がないものであるというのではなく、優先順位を明らかにする必要があるということです。第一の財宝は「内面の富」であり、これが「幸福の源泉」であるとします。人間は、若い間はなかなかこのように思うことができないように思います。他者からどのように見られるかは、気になるものです。しかしある程度年齢を重ねていくと、なるほどと思うようになってくるのも事実です。幸福を求めるためには、降伏せずに、合服を着ましょう。