曾国藩
曾国藩
近代の中国史の研究家である、京都府立大学教授の岡本隆司さんが岩波新書で「李鴻章」「袁世凱」と書いてきましたが、今回は「曾国藩(そう こくはん)」を出版しました。曾国藩てどんな人? という方も多いと思います。もちろん、私も知りませんでしたので、大変勉強になりました。
最初の名前は曾子城(そう しじょう)、1811年湖南省に生まれました。当時は清朝にあたりますが、まだまだ科挙(かきょ 公務員試験の飛び切り難しいもの)が行われていて、立身出世のためには科挙に合格することが求められていました。もともと真面目で、コツコツ努力する人だったようで、1838年に合格して、北京での役人生活に入ります。ところが1843年洪秀全(こう しゅうぜん)がキリスト教の一種である上帝教を創立し、1851年太平天国の乱を起こします。当時の清朝の軍隊は腐敗しきっていたようで、全く役に立たず、当時の咸豊帝(かんぽうてい)は曾国藩に任せることにします。曾国藩は私兵である「湘軍(しょうぐん)」を組織して戦いますが、もともと戦いは下手くそで、勝ったり負けたり、軍費にも困りました。結局約10年の歳月と死者数千万人を出しながら、ようやく平定することができました。曾国藩は軍人としては失敗も多くありましたが、希代の名文家で、日記や手紙を多数残していたので、死後すぐに「曾文正公文集(そうぶんせいこうぶんしゅう 文正という、おくり名をもらった)」が編纂されたほどです。また太平天国の乱を戦う中で、弟子として李鴻章(り こうしょう)を重く用いました。李鴻章と言えば、その後清朝ではこれまた私兵の組織である「淮軍(わいぐん)」を率いて活躍し、日清戦争の後の下関講和条約では、清朝の代表として下関の春帆楼(しゅんぱんろう)で、日本側の伊藤博文と交渉しました。春帆楼は現在でもフグ料理で有名な店で、敷地内には下関講和条約で使われたテーブルや椅子が展示されています。私も一度訪れて、フグをいただいたことがあります。
もともと地味で真面目な秀才であった曾国藩ですが、時代の波の中で慣れない軍人をやらされたという感じです。しかし結果として清朝のために働き、数多くの漢人を殺害したので、後の時代からは、賞賛されたり、批判されたり、毀誉褒貶(きよほうへん)の激しい評価がついて回りました。曾国藩は天津飯が好きだったかもしれません。
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サンテレビ「4時!キャッチ」2020/7/15
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