校長室より

琵琶湖疎水

琵琶湖疎水

 先日、京都の蹴上(けあげ)にある琵琶湖疎水記念館を訪れる機会がありました。

 まず琵琶湖疎水についてですが、明治時代に琵琶湖の水を京都市へ流すために作られた水路です。明治維新の際、京都から東京へ都を移すことになり(東京奠都(とうきょう てんと))、それに伴って京都では人口の減少と、産業の衰退が見られるようになりました。このため第3代京都府知事の北垣国道(きたがき くにみち この人は兵庫県養父市出身)が灌漑(かんがい)、上水道、水運、水車の動力を目的とした琵琶湖疎水を計画しました。そして主任技術者として、工部大学校(のちの東京大学工学部)を卒業したばかりの当時21歳の田邊朔郎(たなべ さくろう)を起用しました。北垣知事に田邊を推薦したのは、当時工部大学校学長であった大鳥圭介(おおとり けいすけ)で彼は兵庫県上郡町の出身です。後に田邊は、北垣知事の娘と結婚することになります。また、欧米の測量術を学んで実績を積んでいた島田道生(しまだ どうせい 当時33歳)が精密な測量図を作成しました。琵琶湖疎水記念館には、この測量図が展示されています。

 現在の第一疎水は1885年に着工し、1890年に完成しましたが、特に難工事だったのは2436mに及ぶ第一トンネルでした。当時の事ですから、ダイナマイトと人力で掘り進めました。工期を短縮するために、両側からだけではなく、竪坑(たてこう シャフト)を利用して真ん中からも掘り進めました。工事費は125万円で、これは京都府の年間予算の約2倍に相当します。

 この疎水の完成により、灌漑や上水道、琵琶湖から大阪までの水運業、水車を使っての発電事業と、数多くの産業が生まれることになり、現在でも利用されています。蹴上周辺には、記念館以外にもたくさんの遺産があります。

・北垣国道と田邊朔郎の銅像 これはあっても不思議はありません。後に田邊朔郎は東京帝国大学教授を勤めることになります。

・疎水工事殉職者弔魂碑・殉職者の碑 弔魂碑には工事による殉職者17名の氏名が刻まれています。

・蹴上インクライン 水面の落差が大きくて、普通に船が運航できないとき、インクラインといって、ケーブルカーのように台車に船を乗せて、ワイヤーで引っ張り上げる(下げる)もので、レールの跡と台車が現在も残っています。

・ねじりまんぽ 「まんぽ」というのはトンネルのことで、蹴上インクラインの下を横断するトンネルです。強度を上げるために、らせん状にレンガが積まれていて、渦を巻いているように見えます。

・扁額(へんがく) 疎水のトンネルなどに設置されている先人たちの揮毫(きごう)です。その人たちは、伊藤博文、山縣有朋、井上馨、松方正義、そして北垣国道と田邊朔郎など、当時の偉人ばかりです。

 もっと時間があれば詳しく見たいものがありましたが、駆け足での訪問でした。琵琶湖疎水は今でも治水や保水のために、安い麻酔の代わりに薄い汚水は運んでいません。