千種高等学校ブログ  Vol.Ⅱ

 本日の千種高校

千種高校歴史紹介シリーズ⑥ 

千種高校歴史紹介シリーズ⑥ 「千種高校独立記念庭園」

千種高校内の庭園と言えば、平成4年に整備された「中庭」が最もよく知られており、40歳代以上の卒業生の方々ならば、「ああ、昔ここにテニスコートがあったなあ…」という感慨を抱かれるのではないかと思います。また、「歴史紹介シリーズ①」でも最後に付け加えましたように、現在の庭園の象徴「自主敬愛の道」の碑が、平成4年までは今の藤棚の北側あたりに西向きに建てられていたということも、昔の卒業アルバム等から知ることができます。

今回ご紹介するのは中庭ではなく、また、校訓碑の置かれている本館西側の植栽でもありません。生徒の皆さんは、特別教室棟の1階を通って体育館に向かう時に「ピロティ」と呼ばれるコンクリートの空間に出ますが、その壁の南側、つまり千種高校の敷地の未申(ひつじさる)の方向南西隅っこに、「富士山」形の岩を中心に据えた実に見事な「日本庭園」があるのを知っているでしょうか。5階建ての校舎に隠れてしまっていてわかりにくいのですが、形のよい数々の岩は苔むして、四季折々の草花が石庭の周辺に生い茂り、秋には秋の、また冬には冬の風情が漂う不思議な空間となっています。唯、いつ頃建てられたのでしょうか、電信柱が2本背後にあり、その景観を壊してしまっているのが非常に残念です。              

 

 

さて、この庭園は何のためにいつ頃造られたのでしょうか。上記の「中庭」等については記録が残っているのですが、この庭園については明確な記録が残されておらず、すべては校長室に保存されている歴代の「卒業アルバム」から推測した結果なのですが、これは「昭和50年に県立千種高校として独立を果たしたことを記念して造られた、独立記念庭園である」と結論付けました。現在の体育館が建てられたのは昭和45年3月。特別教室棟が完成したのは昭和56年10月。昭和49年のアルバムには、体育館西方は黒い土のままで何もありませんが、昭和51年(1976)3月卒業の方のアルバムには、次のような立派な石灯篭を配置した日本庭園の写真が残されています。この年以降のアルバムにこの庭園の写真を見つけることはできません。本当に貴重な記録写真です。そして、写真の後方に現在も残る富士山形の岩が写っているではありませんか。どの程度の面積を持つ庭園であったかはわかりませんが、昭和56年までは体育館の西方に存在し、特別教室棟の工事によってその大部分が切り取られてしまった、つまり、現存する隅っこの庭園は「千種高校独立記念庭園」の一部であることは間違いありません。



しかし、何と美しい形をした富士山形の岩なのでしょうか。周りの石の配置によって、私たちは中心であるこの岩に導かれ、思わず手を合わせたくなるような気持にさせられます。昨日のブログでも紹介した「笛石山(千種富士)」がここ千種にはあるということ。そして、この岩が配されている方向を考えると、以前に校訓碑を紹介した折りにも書きましたように(歴史紹介シリーズ②)、妙見社或いは後山(うしろやま)や日名倉山を向くように据えられていますので、この庭園ひいては千種高校の建設にも、自然豊かなこの千種の地に対する感謝の念及び山々や清流千種川への信仰心が働いているのではないかと思います。エジプトのピラミッドやカンボジアのアンコール・ワット等世界遺産の例を待つまでもなく、現存する遺跡等を目にすると「誰が、どんな情念でこれを建てたのか?」という疑問が湧いてきます。この富士山形の岩を中心とする築庭とて、一体誰が如何なる思いで造られたのでしょうか。興味が尽きません。
                      
昭和50年といえばそれ程古い話ではありません。必ずやこの日本庭園造園の経緯に詳しい方やこの庭園を設計された庭師・造園師の方がおられるはずですので、何かご存知の方がおられましたら、是非とも本校までお知らせいただきますようお願い申し上げます。 

千種中高教員有志 笛石山登山

本日5月5日は「立夏」であり「端午の節句」。千種はすばらしい晴天に恵まれ、絶好の登山日和となりました。5月15日(月)~17日(水)に千種中学校の3年生が修学旅行に出かける時をとらえて1・2年生が地元千種の名峰「笛石山(千種富士)」への登山を15日に実施します。その下見を兼ねて、本日中学校の鳥居先生を団長に廣瀬夫妻と原田夫妻の計5名が登山を行いました。

まず「笛石山」の位置ですが、1枚目の写真をご覧ください。千種町の七野から昨年の冬に撮ったものですが、山頂近くに雪がある山、これが笛石山です。では、千種高校との位置関係はといえば、2枚目の写真は高校の東門から撮ったもので、高校の本館の上に見えている山、これが笛石山です。三角形の雪渓の上部に小さな黒い点が見えますが、これが「猫石」です。7枚目の写真は千種中学校の職員室から撮ったもので、この姿ゆえに「千種富士」と呼ばれています。

  
1 冬の笛石山(昨年11月撮影)    2 高校東門から見た笛石山      3 笛石山登山口
  
4 登山口近くの淵            5 色鮮やかなコバノミツバ       6 山頂ではヤマザクラが健在
   
7 笛石山遠望(中学校職員室から)  8 猫石からの眺望(花はミツマタ)   9 コバノミツバと千種遠望    
  
10 頂上で記念撮影(標高895m)  11 猫石から手を振る鳥居先生    12 千種高校遠望 
  
13 猫石(正面から)           14 猫石(左下側から撮影)       15 キアゲハ 

『宍粟50名山』(神戸新聞総合出版センター、2009)という登山ガイドブックの中に、「笛石山」という名の由来について、次のように書かれています。(p.72)

 「長水城主、宇野政頼主従は秀吉軍に追われ、作州へ落ち延びるべく河呂に至ったが、おりからの雨で千種川を渡れずにいた。その時、美作の竹田城主、新免伊賀守の援軍が到着したのを知らせる笛を対岸の大岩から吹いた。その笛の音を、すでに敵が待ち伏せている知らせと思い、押し寄せる敵中へ斬り込み自刃した。」という悲しい言い伝えがある。以来、この山を「笛石」と呼ぶようになった。

2枚目や7枚目の写真でもかすかにわかりますように、山頂近くに大きな岩があるのが見えます。この岩は「猫石」と呼ばれているのですが、岩の左下から見ると確かに丸い尾を持った一匹の猫が座っているように見えます。猫というよりは熊のようにも見えますが、香住の今子浦にある「カエル岩」を思い出させてくれました。鳥居先生は、山頂から携帯電話で中学校のグラウンドにいる先生と連絡を取り合いながら、この猫石の上に立って懸命に帽子を振り、互いの姿が見えたことを確認し合っておられました。

正確な標高は、894.6m。河呂の「行者霊水」の登山口から登り始めて1時間半。少し急峻な山道を進みながら登ってゆくと、澄み切った清流、目にも鮮やかな新緑、ツツジにも似たコバノミツバという花や黄色いミツマタの花々、そしてキアゲハという蝶が私たちを出迎えてくれましたし頂上からの眺めも最高で、本当に気持ちのよい汗をかくことができました。


次回は、いつになるか未定ですが、我が千種高校の校歌と千種第1尋常高等小学校の校歌で「ああ秀麗の三の丸」と詠われた、「日名倉山」(標高1047.4m)に挑戦しようと考えています。                      

なお、7月12日(金)午後に中高連携「千種学講座」として、上記『宍粟50名山』の編集代表・須磨岡輯(すまおか あつむ)先生の講演会「千種の自然を学ぶ」を千種高校の体育館で行います。地域及び一般の皆様にも是非お聴きいただきたいと存じますので、どうぞご期待下さい。

38回生 卒業アルバムを手にミニ同窓会

毎年、千種高校ではこの時期に卒業アルバムを学校で手渡し、ミニ同窓会さながらの集まりを持っています。本日午後1時頃から、38回生(今年3月卒業)の人たちが続々と生徒玄関前に集まり、元担任の上山麻美先生(現1年生担任)と写真館バップホリサカ(佐用町)の堀坂様から一人ひとり思い出の卒業アルバムを受け取りました。

  

「やあー久しぶり!」「えーっ、だいぶ変わったやん。」…などの言葉が飛び交い、卒業以来それほど時間が経ったわけではないけれども、それぞれが千種から離れて遠くで暮らし始めているが故に何か大きな変化があったように感じられ、互いの近況について語り合ったり、少し恥ずかしそうに上山先生に新天地での暮らしぶりについて報告し、受け取ったばかりのアルバムを開いては歓声を上げたり、互いに高校時代の思い出の写真を指差しては笑い合ったりしていました。

千種高校歴史紹介シリーズ②

千種高校歴史紹介シリーズ② 校訓碑「自立・信愛」

本HPの「校訓・校章・校歌」の項でも紹介してありますように、本校の校訓「自立・信愛」は、昭和55年2月25日に制定されました。どのような経緯でこの校訓が制定されたかは、特に記録には残っていないのですが、本校の旧職員であり宍粟市教育委員でもあられる村上紘揚(ひろあき)先生(元山崎高校長)に伺うと、当時同和教育の研究が盛んに行われ、迷信や因習にとらわれない科学的な物の考え方を身につけなければいけないということで、「自立」や「自律」という言葉が重んじられたとのことです。

第4代校長の上山勝(まさる)先生は、『学校開設40周年記念誌』(昭和63年11月27日発行)の中で、「校訓の「自律・信愛」の精神は、21世紀に生きる人間の指標でございます。自らに対しては厳しく律して立ち、他に対しては温かく敬愛し信頼し、ともに生きる人づくりのために、ますます努力してまいりたいと思います。」と述べて、校訓の意味するところを説いて下さっています。

  
 
さて、本校の玄関西横に校訓碑「自立・信愛」があります。真西ではなく、妙見社や後山の方向を向いて建てられているのですが、校訓の横には「一九八六年三月 兵庫県立千種高等学校 第十一回卒業生一同 学校長 樫本玉男書」と書かれています。

この文字を揮毫(きごう)された第3代校長樫本玉男先生は、昭和元年(1926年)のお生まれで現在86歳になられているのですが、姫路で今もお元気にされています。時折り地元の人権教育研究会等で講師を務められるなど、若い頃に培われたご経験を基に今なおご活躍です。元々社会科の先生であられたのですが、昭和40年代半ばに兵庫県教育委員会の中に設置された「同和教育指導室(現在の人権教育課)」の指導主事となられ、当時の教育次長で本校校歌の作詞者松井利男先生の薫陶(くんとう)を受け、兵庫県同和教育行政の揺籃(ようらん)期に力を発揮された方であります。

先生は、昭和58年1月1日に本校の校長として着任され、3年3カ月をこの千種で単身赴任の形で過ごされています。校訓碑建立(こんりゅう)当時の事について伺うと、「定年退職の間際になって頼まれて、千種を去り行く前の記念として書かせていただいた。」とのことでした。先生はまた、当時の育友会報「敷草」に数多くの実に味わい深い、随筆とでも呼ぶべき文章を残されています。同じ西播磨とはいえ、南端から来られた先生の眼に映った当時の千種町の人情や風物について、実に優しい「まなざし」で書かれています。また機会があれば、「昔の名随筆シリーズ」とでも銘打って是非とも紹介させていただきたいと考えています。

20日(水)の夜、上記の箇所まで書いてブログ上に掲載したところ、ある方から何かひとつ紹介してほしいという要望がありましたので、「干柿」と題する先生の文章を紹介させていただきます。(「敷草」第14号:昭和60年2月25日発行)   <2月21日(木)朝追加記載>

                干  柿
                            千種高校校長 樫本玉男
 今年も福海寺の和尚から干柿を頂いた。窓ぎわにつるし、毎朝その一こだけをほおばる。これがまた何ともいえずおいしい。
 「しぶ柿のしぶがそのまま甘味かな」この句は誰だったのだろう。
 しぶが転じて甘味となるのは、しぶ味を除去して甘味を注入するのではなく、しぶ柿のまま太陽の光と熱に熟されて、しぶそのものが甘味に転化されるのだそうである。
 人それぞれその人なりの短所、つまり「しぶ」を持ち合わせている。ところがそのしぶをかなり苦にしている人を時として見かける。それは間違いのように思えてならない。そのしぶはそれなりにその人の個性をつくり出している一部の要素となっていると思うからである。
 短所を苦にし除去しようとするのではなく、干柿に学び、短所そのものがその人の長所に転化されていくなかでこそ、その人としての深みがそして磨きが増していくのではなかろうか。





 
      

千種高校歴史紹介シリーズ①

千種高校歴史紹介シリーズ① 石碑「自主敬愛の道」

学校にはそれぞれの歴史があり、卒業生や地域の方々が様々な願いを込めて校舎の内外に石碑や記念樹、そして書画扁額 (しょがへんがく)等の品々を残されています。千種高校の中にも数多くの記念碑や書画等があり、これから折りにふれて不定期ではありますが、その幾つかを取り上げて紹介していきたいと思います。

その第一が、「自主敬愛の道」の石碑です。東門から学校に入って真っ先に目につくのがこの碑であり、今ではその後方にある中庭や特別教室棟の姿と共に千種高校の顔となっています。


   

この石碑が建てられた由来について、当時のPTA会報「敷草」(第18号:昭和62年2月25日発行)から拾ってみましょう。


 千種町ライオンズクラブ(会長塚崎篤人氏)は、昭和61年度のメイン事業として、千種高校へ記念碑を寄贈してくださいました。去る2月15日、会員の方々の奉仕作業で、中庭に建ててくださいました。2
メートル余りの大きな石の中央に黒のみかげ石を配したりっぱなもので、3年生の在校中にと配慮してくださいました。卒業する3年生には、よい卒業の記念となりました。

 「自主敬愛の道」は、校歌の一節の「自主敬愛の道ゆかむ」のことばです。これからの社会は、ますます情報化、科学技術化がすすみます。これらの進歩によって、ふりまわされ、惑わされるのではなく、自ら判断し行動するためには主体性をもち、自主性を身につけることが大へん大事なことです。また、国際化もいっそうすすみ、人を敬愛する精神がより必要とされます。高齢化社会では異なる年代の人々が、ともに敬愛することが求められます。在学中には自主敬愛の道を求め、卒業後は自主敬愛の道を歩む、21世紀を迎えるにふさわしい碑文です。ライオンズクラブの皆様に心から感謝申し上げます。


上の写真1枚目(左端)の石碑右下部分を見てください。今では周りの木が少し大きくなって見えにくいのですが、黒い小さな石が見えるでしょう。そこに「千種町ライオンズクラブ」から贈られたということと、この碑文を書かれた、つまり揮毫(きごう)されたのは本校の第4代校長・上山勝先生だということが記してあります。先生によれば、信州へのスキー修学旅行から帰って来られたその晩に「校長さん書いてくれ」と頼まれて必死になって書いた、と笑いながらおっしゃっています。

なお、校歌2番の「自主敬愛の道ゆかむ」ですが、これは作詞者の松井利男先生(姫路商業高校初代校長、元兵庫県教育次長、兵庫県同和教育運動の父)が最も大事にされていた言葉で、同じく先生が作詞をされた姫路商業高校の校歌の1番に「自主の道」、3番に「敬愛の誓ひ」があります。千種高校(当時は千種分校)の校歌が制定されたのは昭和38年4月1日。姫路商業高校は同年11月25日です。松井先生と作曲者の秋月先生は西播磨で数多くの小中学校の校歌を作られていますが、高校は兵庫県内で2校だけです。両校の校歌に相通ずる松井先生の想いを大事にして、この校歌を歌い継いでいきましょう。

それから最後にもう一点、今では東門から見える位置に立っているこの石碑は、建立(こんりゅう)当時、中庭の藤棚の北側に西を向いて建てられていました。平成4年に中庭の整備工事が行われた時に、今の位置に東向きに移されたものだということを付け加えておきましょう。