全景

正面

左全面

右全面

背面


校地図

  • クスノキ、桜、クロマツ、ヒマラヤスギ、クヌギ等々、長年の間に育った、非常に多彩で豊かな植栽に恵まれた校地です。
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校内にある記念碑等

 本校は、明治35(1902)年に旧制県立伊丹中学校として創立し、現在、市立北中学校がある場所に建設されました。北中の正門前にかけられた、今も毎日使われている短い石橋は当時のものです。校門入ってすぐ右には創設の地碑も建てられています。

 昭和16(1941)年12月に太平洋戦争が始まりますが、その年末に現在の校地に移転が完了しました。その際、旧校舎にあった記念碑等が移され、戦後に建てられたものとあわせて、校門からの緑と桜の並木道を中心に校内のあちらこちらに設置されています。

 それでは、校門から玄関に向かって並木道を進み、プリンス池を周って順に紹介します。

校名碑

 校門を入ってすぐ右手に、つつじの植え込みの中に立つ柱状の石碑があります。ごつごつとした荒々しい仕上げの石材の正面には「兵庫県立伊丹高等学校」と校名のみが彫られています。「中学校」とは今の高等学校に相当する旧制中学校のことです。

 建立年はわかりません。記念誌『六十年の歩み』に、住宅街に立つ写真とともに「旧道標」とキャプションが付いているので、旧校舎へ導く道路標識を新校舎の入り口に設置したもののようです。標識ならば木製でもよさそうなものですが、石で作るところに旧制中学校への思いが感じられます。

記念碑

 

 

 校名碑のグラウンド側奥に立っている石碑です。正面には「伊丹中学校移転記念 松樹大小二百本寄付 旧地主 大路利右衛門」とあります。校地の前の所有者が校地ばかりか松の木までも寄贈いただいたということです。

 裏面には「紀元二千六百年 昭和十五年春」と書かれています。西暦1940年は神武天皇即位の年から数える皇紀2,600年となり、戦前の日本では国を挙げて各地で盛大な祝典が行われました。そのおめでたい年に千年生きると言われる松の木をくださったのです。

 本校には今でも松の木がたくさんあります。この時に寄贈されたものだとすれば、少なくとも樹齢は80年を超えることになります。

校訓碑

 

 校門からグラウンドへ入る道を超えると、低い盛り土の上に校訓碑があります。「誠実 克己(こっき) 忠恕(ちゅうじょ)」は明治43(1910)年に道徳教育の目標として定められました。出典は坪内逍遥が著した『中学修身訓』という教科書の第3巻です。

 裏面には「校訓 兵庫県立伊丹高等学校 平成四年十月吉日 創立九十周年記念 記念事業実行委員会 緑窓会長 松谷英次郎 筆」と書かれています。

 記念誌『90年史』によると、校訓碑の建立は、松谷会長が「生徒達の心の糧(かて)」したいと思い取り組まれた事業でした。校長とともに遠くまで出向いて石材の品定めまでされました。

記念樹碑

 校訓碑のすぐ横にある石柱です。真ん中あたりに大きく亀裂が入っているので、アングル鋼で周囲を補強されています。正面には「東京オリンピック記念樹」と彫られています。記念誌『90年史』によると、かつては隣に記念樹として蘇鉄が植えられていました(蘇鉄は現在中庭北側に植え替えられています。詳しくはこちらを御覧ください。)。

 裏面は一部消えていますが、「昭和三十九年十月吉日」と彫られているようです。『八十周年記念誌』によると、10月10日、オリンピックの開会式に合わせて、植樹式とともに校長講話が行われています。

記念碑

 もう少し玄関に近づいたところには石盤があります。表には「皇太子殿下御降誕記念」とあります。裏に「昭和八年十二月二十三日御誕生」と彫られているので、今上天皇の御父上、昭仁上皇が誕生された日です。

 裏面にはもう一つ「従五位勲五等森田勝平謹書」と書かれています。当時の森田校長が石碑の字を「謹書」、謹んで書いたということですが、「従五位」という高い位階に驚きます。当時の校長には華族と同等の位階が与えられていたのですね。

記念樹碑

 グランドへの通路をまたぐところに建てられた石盤と記念樹です。「日米友好のワシントンの『里帰り桜』子孫樹」と題され、記念樹のいわれが書かれています。

 日米友好の桜物語伊丹事業実行委員会から寄贈された里帰り桜を、緑総会(同窓会)が植樹してくださったものです。

 遠く海外でも花を咲かさせ、また育てられた故郷を彩る「里帰り桜」を、令和元(2019)年から取り組む「県校 SAKURA project-X」のシンボルとしていることもあり、毎年、花が着くのを待ち望んでいます。

国旗掲揚台

 もう少し玄関側に歩くと同じ並びにユニークな石の造形物が見えてきます。昔懐かしい国旗掲揚台です。今は見なくなったので使い方がわからない人もいるようですが、2本の石柱の間に掲揚ポールを立てて固定するようになっています。

 右の石柱には「講和記念」と彫られています。記念誌『100年史』によると、昭和27(1952)年サンフランシスコ講和条約発効記念として、生徒総会の決議により国旗掲揚台を設置したとのことです。

 戦後7年の長きに渡って連合国に占領されていた日本の主権が回復したことを祝って、生徒会が日本国旗を掲揚する石台を設置したのです。教育委員会でも、教職員でも、PTAや同窓会でもないんです。こんなことは他校では聞いたことがありません。

 令和4(2022)年は本校創立120周年だけでなく、講和発効から70周年です。現在の県高生も国旗掲揚台を見て、何事も生徒が主体となってやっていく、新制高等学校としての「県高精神」をしっかり受け継いでいってほしいと思います。

 記念樹碑

 

 掲揚台の左にはまた石碑があります。表には「御大礼記念樹」とありますが、やはり記念樹は見当たりません。「大礼」とは天皇即位の礼のことです。裏に「昭和三年十一月十日」とあるので、昭和天皇が即位された時の記念だとわかります。

 裏には「兵庫県立伊丹中学校職員生徒一同」とあり、石盤の寄贈者が明記されています。これが普通です。上の生徒会が建立した講話記念がいかに特別かわかるのではないでしょうか。

 なお、裏には小さく「従五位勲六等阿部常次謹書」とも彫られています。やはり時の第6代校長です。昔は記念碑を建てる時、代表者が字を書くものだったようです。

記念碑

 

 ここから並木道を離れます。「保健室」の看板を見て左折し、プリンス池の北を通って、80周年記念館の前を回ると緑創館(100周年記念館)の威容が眼前に現れます。その右を見ると、本校で最も古く、最も威厳のある石碑があります。

 「東宮台臨記念碑」です。「東宮(とうぐう)」は「皇太子」、「台臨(だいりん)」は「来る」という意味の最高敬語です。年号は記されていませんが、旧校地にあった中学校の玄関向かって左に建てられていたものであり、学校史に明記されています。

 『創立三十年記念伊丹中学校史』には、「明治44年11月20日、第4、第16両師団対抗演習の際、大正天皇いまだ皇太子にてましませし折、行啓の光栄に浴し……」と書かれています。帝国陸軍第4師団(大阪)と第16師団(京都)の対抗演習を統率するため、まだ皇太子だった大正天皇が伊丹に来られた際、本校の視察に来校されたということです。

 また、その3日前には、恐らく皇太子行啓の前駆のため、乃木希典(まれすけ)陸軍大将までもが来校ました。乃木大将は小説『坂の上の雲』で描かれているように日露戦争を代表する将軍ですが、当時は学習院長をされていました。翌年に建立されたこの石碑の題字は乃木大将の筆跡です。

 隣の真新しい石盤には、長らく旧校地に設置されていた石碑を、80周年記念館を建設する際に現在の場所に移設したと記されています。また、石碑の裏面には本校教諭が作った漢文(「碑銘」と言います。)が彫り込まれていますが、残念ながら劣化して大半が判読できません。

礎石

 緑創館の南東側には、高さ50~60センチの石の台座がちょうど緑創館の入り口を飾るように2基設置されています。旧校地に建っていた校舎の玄関にかけられた屋根を支える礎石です。当時の写真はこちらを御覧ください。

 また、本校では卒業50周年目に学校に何かを寄贈する慣行があるため、以上のほかにも記念碑等が校地内に散見されます。