タイトル

兵庫県立加古川西高等学校 公式Webサイト

 
訪問者数2218960人目

日誌

校長室の窓から >> 記事詳細

2019/09/13

玉城デニー知事のインタビューと、島田叡(しまだ あきら)さん

| by:kouchou

玉城デニー知事のインタビューと、島田叡(しまだ あきら)さん

 9月12日の神戸新聞の記事で、沖縄県の玉城デニー知事のインタビューが掲載されていました。沖縄にある米軍基地の問題について、皆さんによく知ってもらいたいという内容でした。インタビューの最後に「兵庫県の皆さんにメッセージはありますか」と言う質問に、「沖縄の人は、島田叡さんのことを忘れることはありません」という返答がありました。
 皆さんは島田叡さんのことをご存じでしょうか。私の恥ずかしい話を書かせてください。今から12年前のことです。当時私はO高校で1年生の学年主任をしており、2年生で実施する与論島への修学旅行の準備をしていました。沖縄本島で一泊するので、平和学習のために、沖縄戦の様子をお話しいただく、語り部さんを派遣してもらうように依頼をかけていました。現在A高校の教頭先生をしておられる、当時副主任をしてもらっていたK先生が、直接お電話を差し上げたときのことです。
「そうですか。兵庫県の高校ですか。協力させてもらいます。しまだ あきら さんには本当にお世話になりましたから」
 K先生は私に「木村先生、しまだ あきら という方をご存じですか」「いや、知りません。あなたは地歴公民の先生だから、知ってるでしょう」「いや、私も知りません」
 お恥ずかしい話ですが、そこから しまだ あきら さんについて、調べていきました。本当に凄い人物でした。
 島田叡さんは1901年に神戸で生まれ、旧制神戸二中(現・兵庫県立兵庫高等学校)を卒業後、東京帝国大学に進み、内務省に勤める。当時の都道府県の知事は、現在のように選挙で選ばれるのではなく、官選で、島田叡さんは1945年1月に沖縄県知事の打診を受け、沖縄県最後の官選知事として赴任する。この頃は、第二次世界大戦の末期であり、日本は敗色濃厚、沖縄は米軍から狙われていることは明らかであった。
 自分も死んでしまうかもしれない覚悟のもとで、島田叡さんは沖縄のために大活躍をする。台湾から米を買い付け、那覇に搬入し、厳しく統制されていた酒や煙草を特別放出するなど、県民は深い信頼の念を抱くようになった。1945年6月に消息を絶ち、遺体は今も発見されていない。戦争が終わり、那覇市の奥武山運動公園に島田叡氏顕彰碑が建てられ、兵庫高校には、合掌の碑が設けられている。また学生時代から野球を愛好してきた島田叡さんに因み、沖縄県高等学校野球新人中央大会の優勝校には「島田杯」が授与される。
 兵庫県出身の素晴らしい人物がいたということ、そのことを沖縄の人々は今も忘れていないということ、これらのことを私も忘れないように、この文章を書きました。


11:43